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藤原 新(ふじわら あらた、1981年9月12日 - )は、日本の陸上競技長距離走・マラソン選手。所属はJR東日本→フリー→レモシステム→フリー(東京陸上競技協会)→ミキハウス。2012年ロンドンオリンピック・2009年世界陸上ベルリン大会各男子マラソン日本代表。 == 来歴 == 長崎県諫早市出身。長崎県立諫早高等学校を経て拓殖大学商学部卒業。拓殖大時代には陸上競技部に所属し、箱根駅伝には第77回(1区10位)と第79回(4区4位)の2回出場している〔選手詳細情報 藤原新 - 箱根駅伝公式サイト〕。 === 北京オリンピックは補欠代表 === 2004年4月、同じ拓殖大陸上部所属だった高田千春らと共に東日本旅客鉄道(JR東日本)に入社。八王子支社総務部総務課に勤務しながら、前年創設されたばかりのJR東日本ランニングチームに所属〔JR東日本ランニングチームは八王子市に拠点を置いており、メンバーの大半は八王子支社勤務の社員である。〕し、競技活動を行う。5000m走・10000m走などで実績を積むとともに、全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)にはチーム初出場の第49回大会(2005年)で1区を任され〔大会結果レポート 第49回全日本実業団駅伝競走大会 - JR東日本ランニングチーム公式サイト〕、その後エース区間に起用されるなどの活躍を見せる。 2007年3月4日の第62回びわ湖毎日マラソンが初マラソン。しかしこのときはレース中に腹痛と足のマメに悩まされて、2時間38分37秒の85位と完走がやっとであった。 2008年2月17日の東京マラソン2008の選考会の部(北京オリンピック男子マラソン日本代表選考レース)に一般参加で2回目のマラソン出場。このときはフルマラソン記録での参加資格(2時間30分以内)を満たさずハーフマラソンの記録で何とか参加資格を得たが、本人曰く「とにかく先頭についていけるところまで行こうと思った」〔マラソン界に期待の新星、藤原新が日本人トップに - 東京マラソン2008記者会見 - マイナビニュース2008年2月18日〕というレース運びでくらいつく。レース終盤で脹ら脛が痙攣するアクシデントに何度も見舞われながら、優勝したビクトル・ロスリン()に次ぐ日本人トップの第2位でフィニッシュ。自己記録を約30分も更新する、2時間8分40秒のタイムをマークし、一躍北京オリンピックの代表候補に名乗り出た。結果的に世界陸上大阪大会男子マラソンで5位入賞した尾方剛と3番目の争いに破れ、補欠となりオリンピック出場はならなかった。 === 世界陸上ベルリン大会出場 === シカゴマラソン出場(16位)を経て、2008年12月7日の第62回福岡国際マラソン(世界陸上ベルリン大会選考レース)に出場。ツェガエ・ケベデ()、入船敏(カネボウ)に次ぐ3位に入った。この記録が2度目の「サブテン」(2時間10分未満)だったことが評価され、2009年の世界陸上ベルリン大会男子マラソン代表5選手の一人に初めて選出された。本大会では序盤は上位集団に食らいつくも、レース中盤以降で大幅にペースダウンしてしまい、61位の惨敗に終わった〔世界選手権ベルリン 男子マラソン テキスト速報 - スポーツナビ2009年8月22日〕。 2010年2月の東京マラソン2010に出場。藤原正和との「藤原」対決に敗れはしたが、2年ぶり2度目の2位でフィニッシュ。同年3月31日を以てJR東日本ランニングチームを退部(JR東日本を退社)、フリーとなる。 同年5月のオタワマラソンに出場。残り1km付近でスパートをかけて抜け出し、そのまま先頭でフィニッシュ、自身念願のマラソン初優勝を大会新記録・コースレコードで飾った〔Japan Running News: ''Arata Fujiwara Sets Ottawa Marathon Course Record .'' 30. May 2010〕。その後、2010年7月1日付で健康食品の製造・販売事業を展開するレモシステムとのスポンサー契約(3年契約)を結ぶ。 2011年10月、7歳年上の一般女性と結婚。妻は富山県の産婦人科医師〔いよいよ 院長先生のブログ 〕。同年末、第1子(長女)が誕生したことをきっかけに富山県富山市に住民登録を行う〔〕。同年10月31日付で諸事情によりレモシステムとの契約を中途解除。東京陸上競技協会所属として、国立スポーツ科学センターを拠点に母校拓殖大学陸上競技部の練習に参加していた。 === ロンドンオリンピック代表選出・出場 === 2012年2月5日の香川丸亀国際ハーフマラソン男子の部では総合6位・日本人で2着(日本人首位は高林祐介の5位・1時間01分31秒)ながらも、1時間01分34秒の自己記録をマークした。同年2月26日、ロンドンオリンピックへの切符を賭け、10度目のマラソンとなる東京マラソン2012に出場。レース中盤から徐々にペースを上げ日本男子トップ争いの先頭に立ち、終盤で前世界記録保持者のハイレ・ゲブレシラシエ()を抜き、2時間7分48秒の自己ベスト記録で2位(日本人1位)でゴールインした。この成績により、同年3月12日にロンドン五輪男子マラソン日本代表に正式選出され、3月17日には日本陸上競技連盟A指定選手となった。なお3月31日には、ロンドン五輪代表選考に落選した「日本最速市民(公務員)ランナー」の川内優輝と共に、荒川の土手で合同トレーニングを披露している〔藤原「強烈な後輩」川内と合同練習 刺激しあって12キロ - スポニチ2012年3月31日〕。 2012年8月12日に行われたロンドン五輪男子マラソン本番では、30Km過ぎ辺り迄は8位以内の入賞を狙える好位置についていた。だが、それまでのペースの上げ下げでスタミナ切れ・ガス欠状態を引き起こし、さらに32Km付近で両足ふくらはぎを痙攣させるアクシデントも響き、又してもレース終盤で極端に大きく失速してしまう。なんとか完走こそはしたものの、結局日本人最下位〔藤原と同じ拓大陸上部の1年後輩だった中本健太郎が6位に入賞。ゴール手前で藤原を追い抜いた山本亮は40位だった。〕の45位に終わった〔藤原新「足にきた」山本「力不足」/陸上 - 日刊スポーツ 2012年8月13日〕〔藤原ガス欠45位「冬のマラソンでリベンジしたい」 - スポニチ 2012年8月13日〕。 === ロンドンオリンピック以降 === ロンドン五輪の惨敗から3か月半後の12月2日の第66回福岡国際マラソン(世界陸上モスクワ大会選考レース)に急遽エントリー。35Km過ぎで再び両ふくらはぎがつる影響によりペースダウン、日本人では堀端宏行に次ぐ2着の4位に甘んじた〔藤原、4位は不満も“実験”には手応え - msn産経ニュース2012年12月2日〕。翌2013年2月、香川丸亀国際ハーフマラソン及び東京マラソン2013に出場予定だったが、同年1月のトレーニング中に左太もも裏を痛めてしまい、両レース共に欠場となった〔 - msn産経ニュース2013年2月19日〕。 2013年9月15日、グレートノースラン(ハーフマラソン・)で福岡国際マラソン以来9か月ぶりの公式レースに出場、1時間2分44秒で日本男子トップの4位に。同年9月29日の函館ハーフマラソン男子の部では、ライバル・川内優輝らと競り合う中残り1.5Kmで後続を振り切り、1時間4分19秒で同大会初優勝を果たした。同年12月1日、1年ぶりフル挑戦の第67回福岡国際マラソンに再び川内らと出場、レース前の記者会見では藤原・川内の舌戦バトルが繰り広げられる〔川内VS藤原 恒例?の舌戦 12・1福岡国際で激突 - スポニチ2013年11月30日〕。しかし16Km付近で先頭集団から遅れ始めた後、20Km手前で歩いてしまい、再び走り出そうとするも20Km過ぎの地点で途中棄権に終わった〔藤原20キロすぎで棄権 福岡国際マラソン - 西日本新聞2013年12月2日〕。 2014年2月23日の東京マラソン2014では、事前にインフルエンザによる練習不足が響き、27Km地点辺りで急激に失速。ゴール手前では日本女子トップで7位の伊藤舞にも追い抜かれるなど、結局76位の成績不振だった。同年5月11日の仙台国際ハーフマラソンでは川内優輝(4位)に遠く及ばず1時間5分42秒の19位、翌週5月18日の高橋尚子杯ぎふ清流ハーフマラソンでも川内(11位)から大きく引き離され、1時間10分42秒の53位に終わった。同年7月6日のゴールドコーストマラソンも川内(3位)と共に出走したが、結果15位に留まった。 2015年2月1日の香川丸亀国際ハーフマラソンは1時間3分46秒の57位〔菊地、日本人トップの7位 丸亀国際ハーフマラソン - 日本経済新聞2015年2月1日〕、同年2月22日の東京マラソン2015も20Km過ぎで集団からズルズル後退し37位〔【東京マラソン】藤原新も失速「本来の自分じゃない」故障からの復活ならず - 産経ニュース2015年2月22日〕と、依然レースで好結果を残せない状況が続いていた。 === リオオリンピック選出は絶望に === 一般参加で出場した同年8月30日開催の北海道マラソンでは、ゴール手前までサイラス・ジュイ(出身・埼玉陸協)と激しく競り合う中、ゴールタイムは2時間16分台ながら自身5年ぶり2回目のマラソン優勝を達成した〔北海道マラソン2015 〕〔藤原新「新たなスタートの地」10年5月以来の優勝 - 日刊スポーツ2015年8月31日〕。続く11月1日の第1回富山マラソンでも、2時間17分台で通算3回目の優勝を果たし、初代王者となった〔富山マラソン 男子は藤原新 女子は野尻あずさが優勝 - KNB WEB 2015年11月1日〕。さらに自身初出場の防府読売マラソンでは、34Km付近で自らロングスパートで2位の川内優輝らを引き離し、2時間11分台で通算4回目の優勝を達成、フルマラソン3連覇を成し遂げた〔藤原新が初V「フォームを探しながらの走りだった」 - 日刊スポーツ 2015年12月20日〕。 2016年2月7日、香川丸亀国際ハーフマラソン男子の部では総合36位に留まったが、1時間02分57秒のゴールタイムで藤原曰く「75点の出来」と評価〔藤原新ハーフマラソン36位も「東京」へは手応え」 - 日刊スポーツ 2016年2月8日〕。同年8月開催のリオデジャネイロオリンピックへ2大会連続五輪日本代表入りを目指し、2月28日の東京マラソン2016に出場〔藤原新「三振かホームラン」五輪へ東京マラソン - 日刊スポーツ 2016年2月28日〕。その東京マラソン本番は29Km地点で第二集団の先頭に立つ場面も有ったが、35km地点を過ぎた後で大失速。結局44位に終わってしまい、リオ五輪の男子マラソン代表選出は絶望となった〔ヤクルト高宮が8位で日本人最高/東京マラソン詳詳細 - 日刊スポーツ 2016年2月28日〕〔東京マラソン2016 ランナーアップデート 藤原新 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原新」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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