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藤原 松影(ふじわら の まつかげ、延暦18年(799年) - 斉衡2年1月22日(855年2月13日))は、平安時代前期の貴族。藤原北家魚名流、刑部少輔・藤原星雄の子。官位は従五位下・山城守。 == 経歴 == はじめ内舎人を務め、天長4年(827年)式部大丞に任ぜられる。当時、春宮・正良親王(のち仁明天皇)の周りに仕える官人は名家から選りすぐって任じていたが、松影の名声が非常に有名であったことから、春宮少進に転じた。のち式部大丞に還任するが、朝廷での会合の際に、嵯峨上皇の皇子・源常が淳和天皇の勅許を得て帯剣したまま参加しようとしたが、そのような勅が出ていることを知らなかったために、松影は詰問し帯剣を許さなかった。常は恥じて赤面して退朝したが、淳和天皇がこれを知って激怒し、松影は弾正少忠に左遷された。 承和元年(834年)遣唐判官兼山城権介に任ぜられるが、母が老いていることを理由に再三固辞し、結局許されている。以降丹波介を挟んで二度に亘って式部大丞を務め、承和11年(844年)従五位下に叙爵。のち、式部少輔・左少弁・治部少輔を歴任した。嘉祥3年(850年)仁明天皇の崩御の際には、御前次第司次官を務めている。嘉祥4年(851年)山城守。 斉衡2年(855年)1月22日病気により卒去。享年57。最終官位は前山城守従五位下。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原松影」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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