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藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ、天武天皇9年(680年) - 天平9年7月25日(737年8月29日))は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族・政治家。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。 == 生涯 == 和銅4年711年、従五位上、和銅5年712年、近江守となる。養老2年(718年)に式部卿。父没後の同5年(721年)には、中納言に昇進して藤原一族の中心的存在となる。長屋王失脚後の神亀6年(729年)に大納言、天平6年(734年)に右大臣就任。天平9年(737年)7月、当時流行していた天然痘に倒れ、臨終の床にて正一位左大臣を授けられる。弟の房前に比べると政治的活動は乏しいと言われているが、大学頭だった時代に大学制度の設立につくすなど文教行政面での活躍は特筆すべきものがある。彼自身も深い教養の持ち主であり、聖武天皇の皇太子時代には家庭教師役(春宮傅)に選ばれたこともあった。死後、天平宝字4年(760年)には太政大臣を追贈された。武智麻呂の生涯を記したものとしては、『藤氏家伝』に収められた「武智麻呂伝」があるが、同書は武智麻呂の顕彰を目的にしていることに注意を必要とする。 天然痘の流行により、不比等の子は、武智麻呂をはじめ4人とも倒れ、藤原氏は一時衰えた、 奈良県五條市の栄山寺裏山に墓所があり、これは『延喜式』諸陵寮の「後阿陀墓」に当たる(国の史跡に指定)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原武智麻呂」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Muchimaro 」があります。 スポンサード リンク
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