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藤原 永頼(ふじわら の ながより)は平安時代中期の公卿。播磨守・藤原尹文の子。官位は従三位・皇太后宮権大夫。山井三位と号す。 == 経歴 == 応和2年(962年)村上天皇の蔵人に補され、木工助に任ぜられる。応和3年(963年)近江掾に転じるが再度木工助を務め、その後従五位下に叙爵。 美作介を経て、天延2年(974年)尾張国の百姓の訴えにより尾張守・藤原連真が解任されると、永頼が守に任ぜられた〔『日本紀略』天延2年5月23日条〕。この当時、散位であった。その後も美作・伊勢・讃岐・大和・丹波〔または、丹後守(尊卑分脈)。〕・近江と計七国の受領を歴任。中宮権亮や木工頭も務めた。近江守在任中〔『権記』長保6年正月7日条〕の長保6年(1004年)仁寿殿の造宮の功〔で従三位に叙される〔公卿に列したものの、『公卿補任』には記載されていない。〕。また、皇太后宮権大夫も務めた。 寛弘2年(1005年)3月、藤原実資を訪ねて出家の意を漏らした後〔『小右記』寛弘2年3月17日条〕、寛弘3年(1006年)10月に出家する。寛弘7年(1010年)閏2月薨去。享年79。岳父・藤原定方より伝領した山井の邸宅に住んでいたため山井三位と号した。この山井第は後に娘婿の道頼が所有した。 永頼の子孫は院政期に藤原信西、藤原朝子夫妻、源義朝の遺児源範頼の養父である藤原範季やその娘で順徳天皇母の修明門院、源頼朝の外祖父藤原季範や母の由良御前などを輩出している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原永頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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