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藤原 清貫(ふじわら の きよつら)は、平安時代の公卿。藤原南家、参議・藤原保則の四男。 == 経歴 == 名地方官として知られた藤原保則の四男として生まれる。讃岐権大掾・中判事・兵部少丞を経て、寛平9年(897年)醍醐天皇の即位に伴い六位蔵人に任ぜられ、翌昌泰元年(898年)従五位下に叙せられる。 五位蔵人に右少弁を兼ねて醍醐天皇の身近に仕えるが、延喜5年(905年)には右衛門権佐(検非違使佐)に任ぜられ、史上初めて三事兼帯となる。その後も弁官を務めながら急速に昇進し、延喜9年(909年)従四位下・蔵人頭、翌延喜10年(910年)には参議兼右大弁に叙任され公卿に列す。この間、藤原時平政権に参加し、延喜5年(905年)に開始された延喜式の編纂や、昌泰4年(901年)に発生した昌泰の変(右大臣・菅原道真の追放)などに関わったとされる。宇佐八幡宮への使者に任じられた折には、道真の見舞いを名目に大宰府を訪れ、帰京後に道真の動向を醍醐天皇や藤原時平に報告している。 その後の忠平政権下でも、延喜13年(913年)従三位・権中納言、延喜14年(914年)中納言、延喜21年(921年)正三位・大納言と順調に昇進し、太政官において、執政の左大臣・藤原忠平、天皇の外戚である右大臣・藤原定方に次ぐ地位を占めた。 しかし、延長8年(930年)6月26日に清涼殿において落雷の直撃を受ける。清貫は衣服を焼損し胸部を裂かれた状態で陽明門から自邸に搬出されたものの、即死状態であった(清涼殿落雷事件)。人々は清貫が菅原道真の追放に関与したために、その怨霊によって報いを受けたと噂したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原清貫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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