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藤原 玄明(ふじわら の はるあき、生年不詳 - 940年(天慶3年))は、平安時代中期の坂東(関東地方)の土豪。素性の詳細は不明で、その姓名から、承平天慶の乱の首謀者の一人で平将門に常陸介に任ぜられた藤原玄茂(ふじわらのはるしげ/はるもち)の一族と考えられる。『将門記』でその人物像を「素(もと)ヨリ国ノ乱人タリ、民ノ毒害タルナリ〔梶原正昭訳注 『将門記2』 平凡社東洋文庫 1979年第2版〕」と酷評されている。 == 経過 == 常陸国東部の霞ヶ浦沿岸地方を拠点として農地を経営していたと見られる。玄明は領地の収穫物を思うまま横領し、国府には租税を一切納めず、常陸介藤原維幾に抵抗していた。939年(天慶2年)、維幾は太政官符の指示に従い玄明らを逮捕しようとするが、玄明は妻子を連れて下総国豊田郡へ逃げ、平将門に庇護を求めた。その道中に常陸国の行方・河内両郡の不動倉 〔官営の穀物倉庫。太政官の許可がないと開けられない〕を襲撃、略奪した。維幾は将門に玄明らの身柄引き渡しを要求するが、将門は「既に逃亡した」とこれを拒否し、玄明を支援すべく〔将門記には、玄明が維幾を暗殺もしくは戦いを挑もうとしていた、とある。〕私兵を集めて11月21日常陸国府に出兵して玄明の追捕撤回を求めた。これに対し常陸国府は武装を固めて要求を拒否して、両者の合戦となり、兵力で劣る将門勢が圧勝して国府を占領、国司を捕縛する事となる。これにより、平将門の乱は坂東平氏一族の間での「私闘」から朝廷への「叛乱」に発展するに至った。 また、将門が若年の頃仕えていた藤原忠平へ送った書状によると、常陸国府を攻撃・占領した事について、 :「維幾の子為憲(ためのり)が公の威光をかさに着て玄明を圧迫しており、玄明の愁訴によって事情を確かめに常陸国府に出向いたところ、為憲は平貞盛と結託して兵を集めて挑んでまいりましたので、これを撃破したのでございます」 とあり、この事件は、平将門が藤原玄明を助けようとした事よりも、将門と対立関係にあった従兄弟の平貞盛の画策であった可能性があるともされている〔荒井庸夫著 『平将門論』〕。 平将門は上野国府を占領すると、「新皇」僭称〔自らの地位や身分を越えて勝手に名乗る事。平将門は桓武天皇の系統であったが、すでに5代を経ており、「新皇」を名乗るのは無理があった。〕と共に除目(じもく)すなわち新しい国司等の役人の任命を行なっているが、藤原玄明はその中に入っていない。 将門の新皇僭称後わずか2ヶ月の940年3月(天慶2年2月)、藤原秀郷・平貞盛・藤原為憲らとの合戦で将門が討ち死にすると勢力は一気に瓦解し、後日常陸にて玄明も斬られた〔玄明が討伐された日や誰が討ったかについては史料がなく不明。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原玄明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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