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藤原 田麻呂(ふじわら の たまろ、養老6年(722年) - 延暦2年3月19日(783年4月25日))は、奈良時代の公卿。藤原式家の祖である参議・藤原宇合の五男〔『続日本紀』延暦2年3月19日条〕。母は小治田功麿男牛養女。官位は従二位・右大臣〔〔『公卿補任』では左大臣とする。〕、贈正二位。号は蜷淵大臣。 == 経歴 == 天平12年(740年)長兄が起こした藤原広嗣の乱に連座して隠岐国に配流。天平14年(742年)罪を赦されて帰京するが、政治とは関わることなく、蜷淵(現在の奈良県高市郡明日香村稲淵)の山中に隠棲する。仏教への信仰心が厚く、修行に努めた〔。 天平宝字5年(761年)従五位下次いで従五位上・南海道節度副使に叙任〔『続日本紀』天平宝字5年11月17日条。『公卿補任』では西海道節度使とする。〕され、天平宝字7年(763年)美濃守次いで陸奥出羽按察使と藤原仲麻呂政権下では主に地方官を務める。また、この間の天平宝字6年(762年)石上宅嗣に替わって遣唐副使に任ぜられているが、結局渡海は中止となっている。 天平宝字8年(764年)に発生した藤原仲麻呂の乱ののち、称徳朝において右中弁・外衛中/大将・大宰大弐・兵部卿と要職を歴任。天平神護2年(766年)には従四位上・参議に叙任され、公卿に列した。 その後、称徳天皇の崩御に伴う天智系の光仁天皇の即位と道鏡の失脚(宝亀元年(770年))や、皇太子・他戸親王の廃太子事件(宝亀6年(775年))が発生するも、政争に巻き込まれることもなく、光仁朝末の宝亀11年(780年)に正三位・中納言、桓武天皇が即位した翌天応元年(781年)には、右大臣・大中臣清麻呂、大納言・石上宅嗣の死去に伴い、大納言兼近衛大将へと、順調に昇進する。 天応2年(782年)左大臣・藤原魚名の失脚に伴い、従二位・右大臣として太政官の首班に立つが、翌延暦2年(783年)3月19日薨去。享年62。最終官位は右大臣従二位兼近衛大将皇太子傳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原田麻呂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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