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藤原 相如(ふじわら の すけゆき、生年不詳 - 長徳元年5月29日(995年6月29日))は平安時代中期の貴族、歌人。藤原北家、右近衛中将・藤原助信の子。官位は正五位下・出雲守。 == 経歴 == 生年は不詳だが、祖父・藤原敦忠や父・藤原助信の年齢などから、天暦年間半ば(950年頃)生まれと推定される〔福井5 〕〔北村44 〕。 天延2年(974年)に円融天皇の六位蔵人に補任される〔『親信卿記』天延2年11月25日条〕。この頃、保子内親王に仕える女房であった大納言の君(藤原伊尹の娘)と交際していたことが窺われる〔『中務集』235-237。『相如集』52-53〕。その後、五位に叙せられて蔵人を退いたらしい〔『新勅撰和歌集』巻第17〕。一条朝にて出雲守を務めた〔『大日本史国郡司表』〕のちは散位〔『相如集』序〕。位階は正五位下に至る〔『尊卑分脈』〕 藤原道兼に家司として仕えその信頼も厚かったという〔『栄花物語』見はてぬゆめ〕。道兼は長徳元年(995年)4月27日に関白宣下を受けるが、間もなく病気となり5月8日に相如邸にて死去する。その悲しみのあまり相如も病を得て、道兼の四十九日の法要に立ち会えない無念さを何度も言いながら、道兼が没してわずか3週間後の同月29日に卒去〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原相如」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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