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藤原 範子(ふじわら の はんし/ のりこ、1152年頃? - 正治2年8月4日(1200年9月13日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の女官。刑部卿藤原範兼の娘。後鳥羽天皇の乳母。同じく乳母で権勢を誇った事で知られる兼子(卿局)は妹。能円の妻、のち源通親の妻。後鳥羽天皇の妃である源在子の母で、土御門天皇の外祖母にあたる。従三位。通称は刑部卿局。子は他に源通光、源定通、源通方。 == 生涯 == 父範兼は範子ら子供達が幼いうちに死去したため、弟妹と共に叔父の藤原範季に養育された(範季は父範兼の養子になっているため義兄でもある)。平清盛の義弟にあたる能円と結婚して承安元年(1171年)に娘の在子が産まれる。治承4年(1180年)7月、高倉天皇の第4皇子尊成親王(のちの後鳥羽天皇)が生まれると、妹兼子と共に乳母となり、親王の養育にあたった。 寿永2年(1183年)7月、夫能円は安徳天皇・平家一門と共に都を落ちた。都では安徳天皇に代わって新たな帝の選定が行われ、後白河法皇の選定により範子が乳母を務める尊成親王が擁立され、後鳥羽天皇となる。天皇の乳母となった範子に源通親が接近し、範子を妻に迎え、範子は文治3年(1187年)に通親の三男通光を産んだ。 かつての夫能円は元暦2年(1185年)3月の壇ノ浦の戦いまで平家一門と共に西走し、その後捕虜となって文治5年(1189年)5月頃に帰洛するが、その時範子は通親の3人目の子を懐妊している身であった。 能円との間の娘在子は通親の猶子となって宮廷に仕え、後鳥羽天皇の寵を受けて建久6年(1195年)11月、第1皇子為仁親王(のちの土御門天皇)を産んだ。建久9年(1198年)正月、3歳の土御門天皇が即位し、天皇の外祖父となった通親は権勢を振るった。 正治2年(1200年)8月4日、死去。『愚管抄』によれば、通親は範子の死後に養女の在子と密通し、それが元で在子への後鳥羽天皇の寵愛は失せ、範季の娘重子への寵が深まったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原範子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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