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藤原範忠 : ミニ英和和英辞書
藤原範忠[ふじわら の のりただ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [はん]
 【名詞】 1. example 2. model 

藤原範忠 : ウィキペディア日本語版
藤原範忠[ふじわら の のりただ]
藤原 範忠(ふじわら の のりただ、生没年未詳)は、平安時代末期の公家神官藤原南家熱田大宮司藤原季範の長男。官位従五位上〔『真光院本藤原氏系図』。『尊卑分脈』では従四位上。〕・内匠頭
== 生涯 ==
熱田大宮司季範の長男として生まれながら、大宮司職は季範の存命中に、弟の範雅に譲られた〔『熱田大宮司千秋家譜』〕。しかし、父が死去した久寿2年(1155年)に、範雅に代わって範忠は大宮司に就任する〔。このあたりの事情は父との不和があったことが推測されている〔藤田元啓『中世熱田社の構造と展開』〕。
官位については、久安5年(1149年)に縫殿助文章生所から正六位上兵部少丞に昇進、仁平3年(1153年)に、義兄弟の源義朝とともに従五位下に叙せられ、応保元年(1161年)に左近衛将監内匠頭と進んでいる。政治的には妻に美福門院女房上総を迎え、外孫の足利義兼美福門院の皇女・八条院蔵人になっていることから、美福門院に接近していたものと推測される。
また、源義朝の正室・由良御前は範忠の姉妹であり、当初政治的にも近い関係にあったと思われる。実際に保元の乱においては、範忠は外戚として義朝に兵を差し出している。しかし、平治元年(1159年)の平治の乱においては義朝には援軍を出さず、逆に戦後駿河国に潜伏していた義朝の五男希義(母は由良御前)を捕らえて朝廷に差し出すという行動をとっている。
その後も後白河院近臣として仕える〔時期は不明であるが、『尊卑分脈』の記述によれば後白河院の上北面を勤めていたという。〕が、後白河院と二条天皇との対立が深まる中で、応保元年(1161年)に天皇を呪詛したとの罪状で解官・逮捕され、翌年周防国配流された。この時点で大宮司職は再び範雅の手に渡るが、嘉応2年(1170年)頃には赦免された範忠が再度その地位に復帰している。なお、同職はその後も二転三転し、治承2年(1178年)には平時子の命で範忠の孫の忠兼に継承されるが、治承5年(1181年)には範雅が三度返り咲いている〔。
範忠の一女は祖父・季範の養女として足利義康に嫁ぎ、義兼・義房〔ただし義房は源季邦(義康弟)と同人物という説もある。〕らを産んでいる。この縁もあり、子孫の多くは足利氏と行動をともにしている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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