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藤原 良相(ふじわら の よしみ/よしあう、弘仁4年〔『日本三代実録』貞観9年(867年)10月10日条に記された良相の没年齢(55歳)による。『公卿補任』では弘仁8年(817年)生まれとする。〕(813年)- 貞観9年10月10日(867年11月9日))は、平安時代前期の公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の五男。文徳天皇の外叔父。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条大臣と号す。 == 経歴 == 若くして大学で学び、その弁舌は才気に溢れていた。承和元年(834年)仁明天皇に召し出されて六位蔵人・右兵衛権大尉として、天皇の身近に仕える。こののち、承和5年(838年)従五位下、承和7年(840年)左近衛少将、承和8年(841年)従五位上、承和10年(843年)正五位下・阿波守、承和11年(844年)蔵人頭、承和13年(846年)従四位下・左近衛中将と武官を務める傍ら順調に昇進し、嘉祥元年(848年)には参議として公卿に列した。また、承和9年(842年)の承和の変に際しては、左近衛少将として近衛兵40名を率いて皇太子・恒貞親王の座所を包囲し兵仗を収めている。 嘉祥3年(850年)甥の皇太子・道康親王が即位(文徳天皇)すると、正四位下に叙され、新皇太子・惟仁親王の春宮大夫に任ぜられる。左右大弁を経て、仁寿元年(851年)良相より先に参議に任官していた長兄・長良を越えて権中納言(同年叙従三位)に任ぜられると、仁寿4年(854年)権大納言・右近衛大将と急速に昇進し、857年(天安元年)太政大臣に昇進した兄良房の後を受けて右大臣・左近衛大将に就任。天安3年(859年)正二位に至る。 貞観6年(864年)清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった〔近年、瀧波貞子は良房の意中の後継者は養子の基経ではなく、10歳年下の弟の良相であり、多美子の入内実現や常行の昇進が基経を上回っていたのも良房が良相-常行に藤原北家を継承させる考えを持っていたからであると唱えている。瀧波はこの路線が崩壊して基経を後継者に切り替えたのは、良相が独断で源信を逮捕しようとしたことが良房の反発を買った結果であるとする(瀧波貞子「陽成天皇廃位の真相」(朧谷壽・山中章 編『平安京とその時代』(思文閣出版、2009年 ISBN 978-4-7842-1497-6)所収)。 〕。貞観8年(866年)の応天門の変に際し、伴善男の告発を受け一旦は左大臣源信の逮捕命令を下すが、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は政治的影響力を失った。 翌貞観9年(867年)10月初めに直廬で急病となり、同月10日に死去、即日正一位を贈られた。遺言に従って薄葬とし、一重の衾だけで棺を覆わせたという〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原良相」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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