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万里小路 藤房(までのこうじ ふじふさ)は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけての公卿。大納言万里小路宣房の一男。後醍醐天皇の側近として倒幕運動に参画し、建武政権では要職を担ったが、政権に失望して出家した。 江戸時代の儒学者安東省菴によって、平重盛・楠木正成とともに日本三忠臣の1人に数えられている。 == 経歴 == 文保2年(1318年)2月後醍醐天皇践祚に際して、蔵人に補任。以後、弁官として累進し、中宮亮・記録所寄人・相模権守などを兼ねる。元亨3年(1323年)1月蔵人頭に補されたが、同年に弟季房も弁官となったため「兄弟弁官例」と称された。同4年(1324年)4月参議に任じられて公卿に列し、正中3年(1326年)春、従三位・権中納言に叙任。嘉暦2年(1327年)7月左兵衛督・検非違使別当を兼ね、元弘元年/元徳3年(1331年)中納言に転正し、正二位に叙された。 同年天皇の倒幕計画が露見したため(元弘の変)、8月四条隆資・北畠具行とともに天皇に供奉して笠置へ逃れた。行在所では、天皇が夢告により楠木正成を召し出した時、その勅使を務めたという〔『太平記』巻3「主上御夢事付楠事」〕。1か月に及ぶ幕府軍との攻防の末、9月28日には笠置が陥落し、藤房は天皇を助けて敗走するも、翌日有王山で捕捉されてすぐに解官となる。10月宇治平等院から六波羅に移送され、武蔵左近大夫将監〔『光明寺残篇』元弘元年10月12日条。北条時益や北条泰家などに比定する説がある。〕の許へ預けられた。元弘2年/正慶元年(1332年)4月幕府から遠流の処分が伝えられると、5月京都を発って常陸国に下り、小田高知の藤沢城に籠居。この間、治久に対する与同勧誘が功を奏したのか、鎌倉幕府滅亡後の元弘3年/正慶2年(1333年)6月には治久を伴って上洛し、復官を果たした。 建武政権下では初め、洞院実世の後任として恩賞方上卿となるが、「忠否ヲ正シ、浅深ヲ分チ」〔『太平記』巻12「公家一統政道事」〕公平な処理を行おうとしたところ、内謁により不正に恩賞を獲得する者が多かったため、病と称して辞退したという。ただ、建武元年(1334年)5月の恩賞方改編に際しては三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)の頭人に任じられており、この他、雑訴決断所の寄人を務めた。一方、後醍醐天皇に直言を呈することのできた硬骨漢としても知られ、出雲の塩冶高貞から駿馬が献上された際、洞院公賢がこれを吉兆と寿いだのに対し、藤房は凶兆と論じ、以下の点を挙げて政権を指弾したという。 * 為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っていること。 * 恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていないこと。 * 大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課したこと。 * 諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること。 * 源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと。 * 倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ不当に恩賞が少ないこと。 藤房は武家の棟梁の出現を危惧し、再三諫言を繰り返すも、天皇に聞き入れられないまま、同年10月5日に岩倉で出家。天皇は慌てて宣房に命じて藤房を召還させたが、既に行方を晦ましていたため、再会は叶わなかったという。その後の消息は不明で、相国寺に住したと伝える〔『尊卑分脈』〕他、各地に伝承が散見する(後述)。 日記『藤房卿記』は僅かに正中3年(1326年)4月26日の抜書「嘉暦元年改元記」が伝存するのみで、翻刻が『歴代残闕日記55』に収められている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万里小路藤房」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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