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藤原 資平(ふじわら の すけひら)は、平安時代中期の公卿。藤原懐平の次男。 ==生涯== 時期は不明ながら、叔父の右大臣実資の養子となる。実資は小野宮流の嫡流を継いでいたため、資平は三歳上の実兄経通と並んで官途を昇ることとなった。 長徳3年(997年)に、12歳で従五位下の叙位を受け、翌年には侍従に任官し、その後も養父の引き上げもあり、順調に官位を昇進し、長和4年(1015年)には公卿に次ぐ蔵人頭に任官する。当時の三条天皇は、廟堂の首班である藤原道長とは疎遠であった関係から実資を相談相手とすることが多く、資平の蔵人頭も道長との押し問答のようなやり取りの挙句に、天皇が強行したものであった。 この頃は三条天皇の眼病が進行し、その退位が予想されていた時期でもあったため、天皇に近侍する蔵人頭の職であった資平も、重大な場面に立ち会うこともあった。実資の日記「小右記」によると、長和4年(1015年)4月29日には、資平の見たこととして、道長が三条天皇に退位を要求したが天皇は断ったことをうかがわせる一文が記されている。 三条天皇の退位で後一条天皇が即位すると、長和6年(1017年)には、参議に任官し公卿となった。しかし、三条天皇との関係からくる活動はその後もあったようで、その中宮妍子が皇太后となると、皇太后宮権大夫となって近侍している。 その後は長元2年(1029年)に権中納言となって以降は、康平4年(1061年)に権大納言となるまで、30年以上廟堂内での官職は変わらず、その間寛徳3年(1046年)には、右大臣となっていた養父実資が死去し、ついで経通も永承6年(1051年)に死去するなどし、小野宮流の嫡流としての重責は資平が担うこととなっていった。長男資房は長久3年(1042年)には参議となり、またその後も兄の子である経季や顕家らが参議となったが、資房には天喜5年(1057年)に先立たれるという悲劇もあった。 しかし、資平自身は長寿で、藤原頼通が子の師実を内大臣に引き上げるため、太政大臣に移った際の異動で、76歳にして権大納言となり、さらに4年後の康平8年(1065年)には大納言に昇った。それから2年後に、在任のまま死亡している。祖父斉敏は46歳と短命であり、実父懐平や兄の経通も長寿ではなかったが、養父実資と同様に長寿であったのは、実資が『小右記』で記しているように健康に関心があり、資平にもそれを守らせていたためと思われる。 また、衰えたとはいえ、資平の頃までは小野宮流は上流貴族の一端を占める権勢家として認識されていたらしく、天喜元年(1053年)の伊賀国で本家の威光を背景に、税を納めない荘園の立券を停止することを命じている官宣旨では、藤原教通、能信、信長らの道長の子孫(御堂流)と並んで、資平の荘園も挙げられており、寄進によって税を逃れることができる家格を持っていたことが伺える。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原資平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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