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藤原 道明(ふじわら の みちあき、斉衡3年(856年)〔『尊卑分脈』による。『日本紀略』による享年68から逆算した場合、仁寿3年(853年)生まれとなる。〕 - 延喜20年6月17日(920年7月5日))は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原南家、相模介・藤原保蔭の長男。官位は正三位・大納言。字は藤階。 == 経歴 == 寛平2年(890年)文章生に補せられ、越前少掾・春宮蔵人・六位蔵人を経て、寛平9年(897年)従五位下に叙爵。寛平10年(898年)相模介。 醍醐朝に入り、延喜3年(903年)播磨介を経て、翌延喜4年(904年)従五位上・権左少弁、延喜6年(906年)正五位下・左少弁次いで右中弁、延喜8年(908年)従四位下・左中弁次いで右大弁と弁官を務める一方で急速に昇進し、延喜9年(909年)参議に任ぜられ公卿に列した。その後も延喜10年(910年)従四位上・左大弁、延喜11年(911年)上位者5名を越えて従三位・権中納言、延喜13年(913年)中納言兼右近衛大将、延喜14年(914年)大納言、延喜17年(917年)正三位と引き続き昇進を重ねた。延喜18年(918年)には先任の大納言・源昇の薨去により、藤原北家の嫡流である右大臣・藤原忠平に次いで、太政官の次席の地位にまで昇った。 醍醐朝では『延喜式』の編集に参画。延喜17年(917年)には伯父の橘澄清とともに山城国深草(現在の京都市伏見区深草直違橋)に道澄寺を創建。現在も当時の梵鐘が栄山寺に現存しており国宝に指定されている。 延喜19年(919年)病気を理由に右近衛大将を辞任。翌延喜20年(920年)6月17日薨去。享年65。最終官位は正三位大納言兼民部卿。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原道明」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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