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藤原 釜足(ふじわら かまたり、1905年1月15日 - 1985年12月21日)は、日本の俳優。本名は安惠 重男、戦時中の芸名は藤原 鶏太。 実生活に根ざした芸風で知られた、黒澤明作品常連の名脇役〔芸能人物事典 明治/大正/昭和(日外アソシエーツ ISBN 4-8169-1513-3)511ページ〕。女優の沢村貞子は元妻。他に安恵一夫、藤原秀臣という芸名も用いた。 == 来歴・人物 == 1905年1月15日、東京市深川区(現東京都江東区)に生まれる。家業の印刷屋不振のため、10歳で麹町の菓子屋に奉公に出る。小学校卒業後14歳で静岡の材木会社に就職、1年後に帰京して薬剤師を目指すが、浅草オペラ全盛時代とあって、オペラ俳優に憧れ滝野川俳優養成所に入る。卒業後、浅草金龍館に出ていた黒木憲三に弟子入り。コーラスボーイとして舞台に立つかたわら、小柄で押し出しもきかぬことを自覚し、楽器を扱える役者を目指そうと東洋音楽学校に通い、ヴァイオリンを習う。 関東大震災等でオペラが衰退する中、川崎の映画館に楽士として入る。結婚し1男をもうけるが、妻を病で失う。その後旧知の榎本健一に誘われ、カジノ・フォーリーに参加する。この時、安惠一夫から藤原秀臣と名乗る。その後、プペ・ダンサントに参加。サトウ・ハチローよりアドバイス(秀でた家臣は鎌足だ)を受けて、藤原釜足と改名。エノケン脱退後には主役級として活躍するも、1933年退座。映画俳優へ道を進む。 初の映画出演はP.C.L.の第1回作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』。P.C.L.時代は主に三枚目を演じることが多かった。1938年の合併で東宝となった後も、準専属から戦後に専属俳優となり、約50年間に渡って東宝映画で活躍した。 戦時中、皇室の忠臣たる藤原鎌足をもじった芸名は不敬とされ、一時改名を余儀なくされた。 戦後は黒澤明作品の常連俳優の一人として活躍し、『生きる』の市民係長役、『七人の侍』の百姓役など計12本の黒澤作品に出演し、個性的な役を演じた。黒澤の『隠し砦の三悪人』で千秋実と演じた農民のコンビは、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に登場するC-3POとR2-D2のモデルになった。また、戦前から『旅役者』などの成瀬巳喜男作品にも計17本出演している。そのほか『サザエさん』シリーズの磯野波平役、薬師丸ひろ子との共演が話題を呼んだ『セーラー服と機関銃』など、数多くの作品に出演した。 1936年、沢村貞子と結婚するが、10年後に離婚している。 1981年、勲四等瑞宝章。1985年12月21日、老衰で死去。。晩年は老衰と戦いながらの俳優生活だった。遺作はNHKドラマ『冬構え』(1985年)〔NHKアーカイブス 〕。 特に、藤原の演技で伝説的に語られているのが『七人の侍』における百姓の万造役である。当時から「黒澤天皇」と呼ばれ、役者やスタッフ陣から恐れられていた黒澤の演技指導を受けた藤原は、その指導とは正反対の飄々としたコミカルな老人を演じたため、当然の如く黒澤は怒り再び演技指導を行う。藤原も「わかりました」と答えるが、いざカメラが回るとまた同じようなコミカルな役柄を演じ続けた。黒澤はその都度、怒りまくしたてたが、藤原は頑なにその演技を止めず(周囲は藤原はボケたのか? と心配したらしい)、とうとう天下の黒澤が折れてその演技にOKを出した。 後日、ラッシュを見た黒澤およびスタッフは「藤原さんの演技が正しかった。話のメリハリが深まった。」と感動し、藤原に詫びた〔黒澤明、野上照代著「七人の侍」創作ノートより〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原釜足」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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