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藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。 == 生涯 == 藤原北家の嫡流(小野宮家)である実頼の次男として生まれる。実頼は冷泉天皇の関白、円融天皇の摂政を務めたが、これは冷泉、円融の外祖父たる実頼の弟の師輔が薨去していたためで、摂関になったものの、実頼は思い通りに政治を主導できなかった。 頼忠は初め母方の伯父である藤原保忠の養子となったが(『公卿補任』応和3年条)、保忠が早世し、続いて兄の敦敏が早世したため、小野宮家の嫡男となる。頼忠が養父・保忠の財産を継承したことは、『朝野群載』(巻21「長久五年権中納言家牒」)から知ることが出来る。ただし、この時代の養子縁組には家の継承の要素は希薄で必ずしも実家との関係を断つものではなかったとされ、保忠の養子となった頼忠が実家の小野宮家を継ぐことは問題とされなかったと考えられている〔栗原弘「平安前期の養子」(『平安前期の家族と親族』(校倉書房、2008年(平成21年)) ISBN 978-4-7517-3940-2 第三部第二章)〕。天暦10年(956年)に権左中弁に任じられ、以後右大弁・左大弁を経て安和元年(968年)に従三位中納言に任じられて公卿に列するまで13年にもわたって弁官を務めた。昇進自体は決して早い方ではなかったが、弁官として太政官の実務に当たることが長く、故実・実務に通じた公卿としての素養を磨いた期間でもあった。応和3年(963年)に参議に任じられている。天禄元年(970年)に権大納言に上り左近衛大将を兼ねる。同2年(971年)に右大臣を拝した。 父実頼の後を受けて摂政になっていた伊尹(師輔の長男で円融天皇の外伯父)が天禄3年(972年)に急死した際には関白候補の1人に挙げられた(『親信卿記』には、当初円融天皇は摂関を置かずに頼忠を内覧とする考えがあり、頼忠に内示していたとを記している)。最終的には内覧宣下は伊尹の弟の兼通が受けた(後に関白)が、藤氏長者は頼忠が務めた。天延2年(974年)兼通が太政大臣となったことに伴い、藤氏長者を兼通に譲った。 兼通は弟の兼家とは非常に不仲だったが、頼忠とは昵懇で、政務の細かいことまで互いによく諮った。貞元元年(976年)12月、兼通は頼忠を一上に任じた。一上が特に定められていない場合には、摂関を除く最上位の公卿、当時の場合には左大臣源兼明が一上の職務を行う慣例となっていたが、兼通による指名によって賜姓皇族として人望の厚かった兼明の政治的権限が剥奪されてしまった。更に翌貞元2年(977年)4月には兼通は源兼明を親王に復帰させて、頼忠を左大臣となした。弟の兼家を憎悪する兼通は、自分の死後に自分の子供達より官位が上である兼家が関白の地位を占める事を恐れて頼忠を自らの後継にしようと考えていた。この年の8月2日に内裏造営の功労に伴う叙位が行われたが、対象者の多さから儀式を全て終えたのが翌朝になるとなる大規模なものであったが、一上であった頼忠の奉行のもとで滞りなく行われたという(『柱史抄』)。 同年11月、重い病に危篤になった兼通は、兼家が自らの後継になることを防ぐために無理に参内し、最後の除目を行い、頼忠は関白の器であるとして職を譲り、逆に兼家から要職である右近衛大将を奪った。即日、頼忠は関白となり、藤氏長者に復した。それから程なく兼通は薨去した。 しばらく不遇だった兼家であったが、頼忠も天皇の外伯父を放置もできず、天元元年(978年)に右大臣に引き上げ政界に復帰させた。同年、頼忠は太政大臣に進んだ。 関白太政大臣となった頼忠だが、天皇との外戚関係がないことが弱味だった。また、天皇も親政への意欲から政務の全てを頼忠には一任せずに左大臣の源雅信に一上としての職務を行わせたために権力が分散され、その政治的基盤も不安定であった。このため、同年、遵子を円融天皇の女御に入内させた。一方、兼家も娘の詮子を女御に入れた。同5年(982年)に遵子は中宮に立てられが、皇子を生むことはなく、世間からは「素腹の后」と揶揄された(栄花物語)。逆に詮子は懐仁親王を生んでおり、ますます兼家に有利な情勢となった。雅信とも兼家とも連携することが出来なかった頼忠の関白としての政治力は限定的なものとなり、政治権力も円融天皇・頼忠・雅信・兼家の4つに割れる中で政局は停滞し、「円融院末、朝政甚乱」(『江談抄』)として後々まで伝えられるほどであったという。 永観2年(984年)、円融天皇は冷泉天皇の皇子・花山天皇に譲位した。新帝の外祖父である伊尹が既に他界していたため、頼忠はそのまま関白に留まったが、東宮には懐仁親王がなった。頼忠は外戚たらんと花山天皇にも諟子を女御に入れるが、花山の寵愛は受けられず、やはり子は得られなかった。また、若年ながらも新帝の補佐役として権中納言に抜擢されて将来の大臣・関白の資格を得た藤原義懐(伊尹の五男で花山天皇の叔父)が加わった事で、更に彼の立場を不安定にした。こうした中で積極的に親政を進めようとする天皇及びこれを補佐する義懐と頼忠の確執は深まり、この年の12月28日に出された「令上封事詔」(『本朝文粋』所収、実際にこれを執筆した慶滋保胤の代表作としても知られる)では、「大臣重禄不諫」と書かれて頼忠以下諸大臣が天皇から糾弾される事態となっている。 兼家は懐仁親王の即位を望み、寛和2年(986年)、策謀を講じて花山天皇を出家退位させてしまった。幼い懐仁親王が即位する(一条天皇)。外祖父たる兼家がいる以上、頼忠は関白を辞するしかなく、兼家が摂政となり朝政を完全に掌握した。 頼忠は太政大臣の地位こそは維持したものの名目のみの存在と化し、永延3年(989年)、失意のうちに薨御した。享年66。 頼忠は参内するときは常に布袴を着ていた。これは束帯に次ぐ礼服で、普通の公家は普段着の直衣で参内していたので、それほど謹直な人柄だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原頼忠」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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