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藤原 頼衡(ふじわら の よりひら)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の奥州藤原氏の武将。奥州藤原氏第3代当主藤原秀衡の六男。秀衡の6人の息子の中では末男にあたる。五兄・通衡と同様に、四人の兄達(国衡、泰衡、忠衡、高衡)と比べて記録が極端に少なく、人物像がはっきりしていない。代わりに伝承が多く、一部では非実在説が唱えられている(後述)。 == 概略 == 『吾妻鏡』には五兄の通衡と共に名前が見えず、また、『玉葉』、『愚管抄』、『明月記』、『六代勝事記』にも頼衡に関する記述は無く、史料に乏しいため、詳細は不明。わずかに頼衡の名が見える『尊卑分脈』には、文治5年(1189年)2月15日に次兄の泰衡によって殺害されたと記されている〔天御中主尊に始まる『藤原氏系図』(個人蔵・江戸初期 京都本)の頼衡の欄には、「文治五二十五泰平誅之」とある。〕。この4ヶ月後に三兄の忠衡と五兄の通衡も父の遺言を破った泰衡に対して反乱を起こした(或いは反乱を計画した)ため討たれているが、それと同じ理由かは不明。一般的には後述の伝承の影響もあり、父の遺言と源義経を支持してそれと通じ、泰衡によって誅されたと信じられている。これが事実ならば、忠衡と通衡が誅された理由と同じになる。没年齢については正確には不明だが、三兄・忠衡が23歳で死亡したことを考えると、五兄の通衡と同様にそれより下の年齢であったと推測できる。また、後述の伝承により、死去時の年齢は16歳前後ともされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原頼衡」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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