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藤原 頼通(ふじわら の よりみち)は、平安時代中期の公卿。太政大臣藤原道長の長男。 父道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に亘り、関白を50年の長きに亘って務め、父道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した平等院鳳凰堂である。 しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったことや刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぎ、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがせる事態が相次ぎ、加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと移ることになる。 == 生涯 == === 道長存命時 === 一条天皇のもとで内覧左大臣として朝政を主導し、権勢を振るった父道長には左大臣源雅信の娘倫子と安和の変で失脚した左大臣源高明の娘明子の二人の妻がいた。倫子が正妻とみなされ、倫子の子の頼通・教通は、明子の子の頼宗、能信らより昇進の面で優遇され、また娘も倫子の子が皇妃とされた。 長徳4年(998年)童殿上、長保5年(1003年)12歳で内大臣藤原公季の加冠により元服し頼通と名乗り、正五位下に叙せられる。寛弘3年(1006年)、15歳にして従三位に叙せられ公卿に列した。累進して長和2年(1013年)に権大納言に任ぜられる。 村上天皇の第七皇子具平親王が娘の隆姫女王を頼通の妻にと申し入れた時、道長はこの高貴な姫との縁談を「男は妻がらなり」と言って喜んだ。隆姫は美女で文才もあり、頼通と仲睦まじかったが、子が生まれなかった。 一条天皇の後を継いだ三条天皇と道長とは確執があり、天皇が失明寸前の眼病を患ったことから、道長はしきりと譲位を迫っていた。東宮は道長の長女彰子の生んだ敦成親王(後の後一条天皇)であった。天皇は道長を憎み譲位に応じようとしなかった。『栄花物語』によると、天皇は道長を懐柔すべく頼通への皇女禔子内親王の降嫁を申し出た。道長は同意したが、隆姫のみを愛する頼通はこの縁談を憂いた。これに対して道長は「男子がなぜ一人の妻で止まるのか。しかも子がないのだから、広く継嗣を求めよ」と叱咤して無理強いに縁組しようとさせたが、やがて頼通は重病となり、加持調伏の結果、具平親王の怨霊が出たため、この結婚は沙汰止みになったという。 同5年(1016年)、結局、三条天皇は道長の圧力に屈して、敦成親王に譲位した(後一条天皇)。外祖父の道長が摂政となった。翌同6年(1017年)頼通は内大臣に進むとともに、父に代わって摂政の宣下を受け藤原氏長者も譲られた。頼通は僅か26歳であり、最年少の摂政だった。道長は同年末に太政大臣に上るが、翌年には辞して、前太政大臣として若い頼通を後見することで後継体制を固めた。 寛仁3年(1019年)関白となり、治安元年(1021年)に左大臣に転じた。この間に父の道長は後一条天皇に三女の威子を入内させ中宮となし、また東宮敦良親王(後の後朱雀天皇)には末子の嬉子を入内させ、嬉子は親仁親王(後の後冷泉天皇)を生み、将来への布石を打った。 寛仁3年(1019年)に道長は出家したが依然として実権を握り、頼通もその意向に従ってむしろ大事にはその判断を仰いでいる。道長が公卿たちの前で関白の頼通を罵倒することもあったといい、治安3年(1023年)と万寿2年(1025年)に不始末から父より一時勘当の処分を受けている。 頼通は有職故実に通じた当代の学識者だった小野宮流の藤原実資に師事して親交を結び、道長への批判者だった実資も頼通には好意を持っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原頼通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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