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藤川 三之助(ふじかわ さんのすけ、1884年 - 没年不詳)は、日本の俳優である〔高沢, p.151.〕〔キネマ旬報社、p.502-503.〕〔''藤川三之助''、日本映画データベース、2013年3月26日閲覧。〕〔''藤川三之助''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月26日閲覧。〕〔''藤川三之助''、日活データベース、2013年3月26日閲覧。〕。本名平田 三彌(ひらた さんや)〔〔。 == 人物・来歴 == 1884年(明治17年)、神奈川県横浜区(現在の同県横浜市中区あたり)に生まれる〔〔。1930年代に日活京都撮影所で脇役を務めた時代劇俳優の藤川三之祐は、1889年(明治22年)3月22日生まれであり、年齢も近いが、別人である〔。 旧制中学校に進学したが、2年次で中途退学し、三井物産の郵船部門(現在の商船三井)に勤務した〔。その後、職替えののちに新派俳優となり、佐藤幾之助や木村猛夫らの一座に参加、各地を巡業する〔。1911年(明治44年)に福宝堂が東京府北豊島郡日暮里村(現在の東京都荒川区西日暮里3丁目7番)に自社の撮影所を建てたが、これに入社して、映画俳優に転向する〔。1912年(大正元年)9月10日、福宝堂は他社と合併して「日本活動写真株式会社」(日活)を設立するが、藤川は、元福宝堂が1914年(大正3年)3月17日に設立した天然色活動写真(天活)に移籍している〔。 1916年(大正5年)2月、改めて日活に入社、向島撮影所に所属し、当初は女形として出演、のちに男役に転向する〔。1922年(大正11年)12月、田中栄三が監督した『京屋襟店』の完成試写後に、藤野秀夫、衣笠貞之助、荒木忍、東猛夫ら幹部俳優13名が集団退社の辞表を提出、石井常吉の計画によって国際活映(国活)に引き抜かれる事件が起きるが、藤川もこれに連座し、国活に電撃的に移籍している〔田中, p.363-366.〕〔佐相, p.106.〕。 1923年(大正12年)3月、国活が製作を停止すると、同社を退社し、衣笠貞之助ら同様に京都に移り、等持院に撮影所を持つ、牧野省三のマキノ映画製作所に移籍、衣笠が監督する映画に出演している〔〔。等持院撮影所が東亜キネマに吸収されてからは、高松豊次郎の娘婿の山根幹人、高松の三男・高松操(のちの吉村操)の監督作等に出演、1925年(大正14年)に高松が、牧野省三のマキノ・プロダクションと連携するタカマツ・アズマプロダクションを設立すると、東京に戻り、これに参加している〔〔。1927年(昭和2年)に同プロダクションが活動停止、それ以降は、1929年(昭和4年)に日活太秦撮影所での出演記録がみられる〔〔〔。別人である「藤川三之祐」が映画界に参入するのが1933年(昭和8年)であるとされているが〔、多くの資料で混同されており、詳細は不明である〔〔〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤川三之助」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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