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藤式部 : ミニ英和和英辞書
藤式部[ふじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [しき]
  1. (n,n-suf) (1) equation 2. formula 3. expression 4. (2) ceremony 5. (3) style 
式部 : [しきぶ]
 【名詞】 1. (Meiji era) official responsible for court ceremonies 

藤式部 ( リダイレクト:紫式部 ) : ウィキペディア日本語版
紫式部[むらさきしきぶ]

紫式部(むらさきしきぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の女性作家歌人。『源氏物語』の作者と考えられている。中古三十六歌仙女房三十六歌仙の一人。『小倉百人一首』にも「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」で入選。
屈指の学者詩人である藤原為時の娘。藤原宣孝に嫁ぎ、一女(大弐三位)を産んだ。の死後、召し出されて一条天皇の中宮・藤原彰子に仕えている間に、『源氏物語』を記した〔『百科事典マイペディア』、「紫式部」の項、平凡社2006年。〕。
== 略伝 ==

藤原北家の出で、越後守藤原為時の娘で母は摂津守藤原為信女であるが、幼少期に母を亡くしたとされる。同母の兄弟に藤原惟規がいる(同人の生年も不明であり、式部とどちらが年長かについては両説が存在する〔堀内秀晃「紫式部諸説一覧 二 惟規との前後関係」阿部秋生編『諸説一覧源氏物語』明治書院、1970年8月、pp. 338。 〕)ほか、姉がいたことも分かっている。三条右大臣藤原定方、堤中納言・藤原兼輔はともに父方の曽祖父で一族には文辞を以って聞こえた人が多い。
幼少の頃より当時の女性に求められる以上の才能で漢文を読みこなしたなど、才女としての逸話が多い。54帖にわたる大作『源氏物語』、宮仕え中の日記『紫式部日記』を著したというのが通説、家集『紫式部集』が伝わっている。
父・為時は30代に東宮の読書役を始めとして東宮が花山天皇になると蔵人式部大丞と出世したが花山天皇が出家すると失職した。10年後、一条天皇に詩を奉じた結果、越前国受領となる。紫式部は娘時代の約2年を父の任国で過ごす。
長徳4年(998年)頃、親子ほども年の差がある山城守藤原宣孝と結婚し長保元年(999年)に一女・藤原賢子(大弐三位)を儲けたが、この結婚生活は長く続かずまもなく長保3年4月15日(1001年5月10日)宣孝と死別した。
寛弘2年12月29日1005年1月31日)、もしくは寛弘3年の同日(1006年1月26日)より、一条天皇の中宮彰子藤原道長の長女、のち院号宣下して上東門院)に女房兼家庭教師役として仕え、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで奉仕し続けたようである。
なおこれに先立ち、永延元年(987年)の藤原道長と源倫子の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した可能性が指摘されている。源氏物語の解説書である「河海抄」や「紫明抄」、歴史書の「今鏡」には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。それらは伝承の類であり信憑性には乏しいが、他にも紫式部日記からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時為時は失職しており家庭基盤が不安定であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また女房名からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、さらにその間に越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国「越前」や亡夫の任国・役職の「山城」「右衛門権佐」にちなんだ名を名乗るのが自然で、地位としてもそれらより劣る「式部」を女房名に用いるのは考えがたく、そのことからも初出仕の時期は寛弘2年以前であるという説である〔徳満澄雄「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」『語文研究』第62号、九州大学国語国文学会、1986年、pp.. 1-12。 〕。
詞花集』に収められた伊勢大輔の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
藤原実資の日記『小右記』長和2年5月25日1014年6月25日)条で「実資の甥で養子である藤原資平が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際『越後守為時女』なる女房が取り次ぎ役を務めた」との記述が紫式部で残された最後のものとし、よって三条天皇長和年間(1012-1016年)に没したとするのが昭和40年代までの通説だったが、現在では、『小右記』寛仁3年正月5日(1019年2月18日)条で 、実資に応対した「女房」を紫式部本人と認め(〔角田文衞「紫式部の本名」『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)。〕)、さらに、西本願寺本『平兼盛集』巻末逸文に「おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…」とある詞書と和歌を、岡一男説〔岡一男「紫式部の晩年の生活附説 紫式部の没年について 『平兼盛集』を新資料として」『増訂 源氏物語の基礎的研究 紫式部の生涯と作品』東京堂出版、1966年、pp.. 143-170。〕の『頼宗集』の逸文ではなく、『定頼集』の逸文と推定し、この直後に死亡したとする萩谷朴説〔萩谷朴「解説・作者について」『紫式部日記全注釈』下巻、角川書店、1973年8月、pp.. 467-508 ISBN ISBN 978-4047610217 〕、今井源衛説が存在する。
現在、日本銀行D銀行券 2000円札の裏には小さな肖像画と『源氏物語絵巻』の一部を使用している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「紫式部」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Murasaki Shikibu 」があります。




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