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藤掛 永勝(ふじかけ ながかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。丹波上林の大名。織田氏の一族。江戸時代初期の大身旗本。初名は吉勝。 == 生涯 == 弘治3年(1557年)、織田永継の子として生まれた。永禄元年(1558年)に父が死去した後、外祖父・藤掛善右衛門に養育されたことから藤掛姓を称した。 永禄10年(1567年)ころ、織田信長に仕える。織田氏と浅井氏との婚儀に際しては、永勝は信長の妹お市に随伴して小谷城に入る。小谷落城時はお市や浅井三姉妹を救出して岐阜城に帰参した。 天正7年(1579年)、信長の四男・秀勝が羽柴家の継嗣として羽柴秀吉に養子入りすると、信長の命によってその補佐役を務めた。信長の死後、秀勝が丹波一国の国主に封ぜられると、同国氷上郡小雲にて6,000石を与えられた。小牧・長久手の戦いにも秀勝と共に参戦して、その功で従五位下、三河守に叙任された。 天正13年(1585年)12月に秀勝が病死した後、秀吉に直臣として召し抱えられ、丹波国何鹿郡上林1万3,000石を領し八津合城を築いた。八津合は丹波国の北辺に位置し、京都の奥座敷ともいわれる畿内の防衛上重要な地である。小田原征伐や文禄・慶長の役にも参戦し、とくに文禄の役では渡海して晋州城攻めで武功を挙げた。 慶長5年(1600年)の時点で丹波国何鹿郡上林に1万5,000石。同年関ヶ原の戦いでは西軍に与した。大坂城下の高麗橋を服部正栄と共に警備した後、丹後田辺城攻めに参加した(田辺城の戦い)。細川幽斎と親しく攻撃は形だけであったというが、戦後は丹波国何鹿郡上林6,000石に減封された(形式上一旦改易された後に改めて上林6,000石に封ぜられたともされる)。元和3年(1617年)6月5日、京都にて死去した。享年61。 家督は嫡男の永重が相続した。江戸時代を通じて、藤掛氏(藤懸氏)は上林八津合(現在の綾部市八津合町)に陣屋(事実上は城・旧八津合城)を構える大身旗本(4,000石)として存続した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤掛永勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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