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藤本 修二(ふじもと しゅうじ、1964年7月22日 - )は、愛媛県今治市出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 今治西高では、2年生の時にエースとして、小学校から同期の武田康捕手とバッテリーを組み、夏の甲子園に出場。準々決勝に進出するが、この大会に優勝した報徳学園の金村義明投手に抑えられ、1-3で敗退。1年上のチームメートに渡辺弘投手がいた。翌年夏は県予選決勝に進出するが川之江に敗れ、甲子園出場を逸する。 のドラフト会議で南海ホークスで5位指名を受け入団。2年目のからに7勝、8勝、10勝、15勝、10勝を挙げ先発ローテーションの一角を守った。は15勝を挙げ、両山内と呼ばれた山内孝徳、山内和宏とともに、南海がこの年シーズン終盤まで久々に優勝を争う原動力となった。 シーズン終了後に、球団が大阪市から福岡市へ本拠地を移転〔この時に球団名も「福岡ダイエーホークス」へ改称している。〕してからは、右大腿内転筋の故障などでほとんど働けなかった。南海時代指導を受けた河村英文によるとに監督に就任した田淵幸一に心技両面で翻弄され尽くし半ばノイローゼみたいになった時期があったらしい〔河村英文著、これでいいのかダイエー野球、1991年、葦書房、P88-89。心の面では藤本が二軍落ちしていた夏場のころ「藤本修と橋本武広の二人をテストしたいので平和台によこせ」田淵監督から指示があり藤本、橋本の順でテストを受けたがどうやら藤本が平和台に出掛ける前から橋本の一軍昇格が決まっていたらしい。その証拠に田淵、ヘッドコーチの黒田正宏もブルペンに顔も出さずわずか30球だけ投げて帰宅ok。すぎに橋本が昇格した。ちょうど藤本の調子が上がっていた時期でもあったし、大張り切りでテストを受けただけにその後の落ち込みようははた目にも気の毒で見ておれなかったと後になって関係者から聞かされた。「技」の面では、なんと壮烈な要求が藤本を苦しめた。監督は例えば「外角ぎりぎりにスライダーを決める」ことを強要する。ところが藤本はもともとコースぎりぎりに決める球で勝負するタイプのピッチャーではない。5球投げて2、3球、3球投げれば1球、2球思い通りの球が行けばまず好調だと見てよい、まあ荒れ気味、悪く言えばアバウトなピッチングが持ち味だった。その藤本にいきなり東尾になれと命じても無理というもの。本人は途方に暮れるばかりだろう。事実彼は完全に自分のピッチングのペースを忘れてしまった。自分の投球をどう組み立てたら良いのか分からなくなり結局ダイエーでは再起できないままで終わったと記している〕。オフに西川佳明らと共に5対4の大型トレードで阪神タイガースへ移籍した。だがここでも往年の力は取り戻せず、オフに戦力外となり、西武ライオンズにテスト入団。西武では主に中継ぎとして活躍した。1995年限りで引退。 引退後は阪神の打撃投手を経て、阪神のチーム・スタッフ(一軍用具担当)を務める。 南海時代のキャンプ中、宿舎近くの公園にいた猫に餌をあげようとしたところ指を噛まれてしまい、1週間投球練習ができなくなった。このことから「ニャンコ」の愛称がついた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤本修二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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