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藤林 甲(ふじばやし こう〔''Ko Fujibayashi'', インターネット・ムービー・データベース 、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''・''藤林まさる''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、東宝、2015年7月9日閲覧。〕、1908年5月25日 - 1979年8月21日)は、日本の照明技師である〔〔〔〔佐藤, p.520.〕〔管家紅葉氏談話 、立命館大学、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、文化庁、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、KINENOTE, 2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、allcinema, 2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''・''藤林まさる''、日本映画データベース、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、日活、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、日本映画製作者連盟、2015年7月9日閲覧。〕〔''藤林甲''、テレビドラマデータベース、2015年7月9日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2015年7月9日閲覧。〕。牧野省三のマキノ・プロダクションにキャリアを始め、東宝を経て戦後、日活の製作再開とともに新東宝から移籍、石原裕次郎主演作のほとんどすべての照明を設計した〔〔〔、2015年7月9日閲覧。〕。テレビ映画では、ユニオン映画の初期作品を手がけたことで知られる〔。本名は同じで読みが「ふじばやし まさる」〔。初期別名藤林 まさる(ふじばやし まさる)〔〔。日本映画テレビ照明協会の第5代・第7代会長を歴任した〔歴代会長 、日本映画テレビ照明協会、2015年7月9日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == === サイレントの時代から === 1908年(明治41年)5月25日、福岡県福岡市に生まれる〔。 1921年(大正10年)3月、旧制小学校を卒業、同年4月、福岡県筑紫郡堅粕町(現在の同県福岡市博多区堅粕)の福岡県立福岡中学校(現在の福岡県立福岡高等学校)に入学するも、のちに中途退学する〔。満17歳になる1925年(大正14年)には、同年6月に設立され、花園天授ヶ丘に御室撮影所を開いたマキノ・プロダクションに入社、光線部(のちの同社配光部、照明部)に配属される〔〔〔御室撮影所 、立命館大学、2015年7月9日閲覧。〕。同部には主任技師として大海源太郎〔、2015年7月9日閲覧。〕〔大海源太郎 、東京国立近代美術館フィルムセンター、2015年7月9日閲覧。〕がおり、藤林は大海に師事した〔。当時同社の助監督であった管家紅葉(1909年 - 2006年)は晩年の回想で、大海は「心安かった」、その弟子である藤林も「親切でした」とその人柄を述べている〔。同年に入社、同じ照明部に配属された同僚に西川鶴三(1910年 - 1970年)がいる〔キネ旬, p.85.〕。 1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ・プロダクションは、長男のマキノ正博(のちのマキノ雅弘、1908年 - 1993年)を中心とした体制になる〔。新体制において藤林の名は見られないが、師の大海が「電氣主任」として記されており、新体制以降も同社に在籍、翌1930年(昭和5年)2月28日に公開された『祇園小唄絵日傘 第一話 舞の袖』(監督金森万象、撮影松浦茂)には藤林 まさるの名で廣石常雄と共同で「配光」(照明)としてクレジットされており〔、同年7月6日に公開された『少年戦線』にも、同名義で大海と共同で「照明」としてクレジットされている〔〔。正確な技師昇進時期は不明であり、この時期に手がけた他の作品については、現状のデータベース等では明らかにはされていない〔〔〔〔〔〔。1931年(昭和6年)に入ると同社の製作業務が行われなくなり、同年10月、同社は解散しているが〔、同年のある時期に松竹下加茂撮影所に移籍した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤林甲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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