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藤江 監物(ふじえ けんもつ、貞享4年(1687年) - 享保16年8月27日(1731年9月27日)は江戸時代中期の日向延岡藩家老。名は満遭(みつゆき)。字は主水(もんど)と称した。〔『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社 P.791〕 父は牧野成央に仕えた延岡藩家老・藤江竹右衛門(たけうえもん)、母は丹(たん)。妻は縫(佐沢覚左衛門二女)、長男に与一郎(後に図書)、次男に竹之進(後に多治見)、三男に礼二郎(後に川崎右膳)がいる。〔『宮崎県大百科事典』宮崎日日新聞社 P.791〕 ==経歴== *1712年(正徳2年) 藩主牧野成央の国替えに従い父・竹右衛門とともに延岡城移封 *1715年(正徳5年) 父・竹右衛門病没に伴い延岡藩家老に就任、江戸在勤 *1717年(享保2年) 6月 藩主牧野成央の延岡城入城 *1719年(享保4年) 藩主牧野成央死去。祖父の次男幸之助(のちの牧野貞通)が藩主に就任 *1720年(享保5年) 三男礼二郎、川崎祐興斉の養子となる。のちに元服して川崎右膳と改める *1722年(享保7年) 長男与一郎元服、名を図書と改める。領内出北村庄屋らによる用水建設を願い出る訴状がたびたび出され、郡代奉行を経て延岡藩庁に提出される *1724年(享保9年) 郡奉行江尻喜多右衛門に命じて、3月に岩熊井堰築造と出北用水路開削工事着工。8月、暴風雨による河川の氾濫により築堤が決壊・流失し、用水路の埋没被害が出る *1725年(享保10年)2月 井堰築造、用水路開削工事再開するもその後もたびたび河川の氾濫による流失と損失を繰り返す *1726年(享保11年)10月 藩主牧野貞通が延岡城入城。11月、貞通が岩熊井堰用水路普請現場を検分 *1731年(享保16年) 筆頭家老牧野斉宮らにより藩の軍用金流用の疑義があるとの讒言により、長男図書・次男多治見・三男川崎右膳とともに入獄される。40日目に長男図書が獄中で病死(享年24)。それから絶食し、更に27日目の8月27日に獄死(享年45)。 *1734年(享保19年) 江尻喜多右衛門らによって継続された岩熊井堰および出北用水路竣工 *1924年(大正13年) 贈従五位 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤江監物」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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