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藤沢 頼親(ふじさわ よりちか、? - 天正10年(1582年))は、戦国時代の武将、信濃国福与城主。諏訪大社上社大祝(おおほうり)家の神氏諏訪氏の分流にあたる藤沢氏の生まれで父は藤沢隆親。妻は小笠原長時の妹。福与城は箕輪城とも呼ばれたため、箕輪次郎と呼ばれた。弟に権次郎がいる。 == 略歴 == 天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が本格化し、天文9年(1540年)に家督を継承した武田晴信(信玄)は諏訪郡侵攻を開始する。『高白斎記』(『高白斎記』には信濃国衆に関する記述が詳しく、以下も同書に拠る)に拠れば、天文11年(1542年)には晴信は高遠(長野県伊那市)の高遠頼継らと結び諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼすが、諏訪統治を巡り武田と高遠頼継が対立し、頼継は福与城(長野県上伊那郡箕輪町)の頼親や上伊那の春近衆らを糾合して武田方と敵対する。武田方は頼重の遺児虎王を奉じて諏訪一族を糾合すると同年9月25日には高継らを撃破し、26日に武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻し福与城を囲む。28日に頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕したという。 天文13年(1545年)には武田方から離反し、10月29日には再び福与城には攻められている。信濃守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗するが、翌天文14年4月には伊那高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み、同年6月10日には和睦が成立し、武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、起請文を提出し信友の傘下に配せられた。以後、武田との関係は穴山氏を通じており、天文17年(1549年)には上田原の戦いにおける武田方の敗北を機に小笠原氏と結び再び武田氏から離反するが、信友を通じて武田に降っている。 その後、年代は不明ながら上洛して三好長慶に仕えたという。長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城とした。天正10年(1582年)武田氏、次いで織田信長が滅ぶと北条氏直に属することを企図するが、徳川家康に属する保科正直に攻められ、田中城で息子の頼広とともに自害した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤沢頼親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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