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藤波畷の戦い(ふじなみなわてのたたかい)は、永禄4年(1561年)9月13日(旧暦)に行われた、東条吉良氏の居城東条城をめぐる吉良氏と松平元康(徳川家康)の一連の攻防戦の一つ。 この戦いで吉良義昭の家老富永忠元(伴五郎)が本多広孝に城下の藤波畷(愛知県西尾市吉良町瀬戸藤波付近)で討たれ、吉良義昭は防戦の望みを失い降伏したとされる。 == 背景 == 今川義元の死により、その束縛を離れた松平元康(徳川家康)が、東条吉良領を切り取ろうとして永禄4年4月より東条城攻めを仕掛けた。しかし、東条城は容易に陥落せず、同6月、元康は津平(つのひら、吉良町大字津平)に松井忠次、小牧(こまき、吉良町大字小牧)に本多広孝、糟塚(かすづか、西尾市平原町城山)に小笠原長茲(三九郎)を配置、それぞれ砦を構築させて東条城包囲網を作った。しかし、室城の城主で吉良家家老の富永忠元は吉良勢を引率して奮戦、4月の善明堤の戦いでは東条領中島城を占領した松平好景を失い、中島城を奪回されるなど、松平側は甚大な損害を蒙っており、その後も松平勢は毎回敗北し手を焼いた。そのため本多広孝は富永忠元を必ず討ち取ると固く心に決めていたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤波畷の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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