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藤澤 浅二郎(藤沢-、ふじさわ あさじろう、天保暦 慶応2年4月25日 / グレゴリオ暦 1866年6月8日 - 1917年3月3日〔藤沢浅二郎 、『朝日日本歴史人物事典』、執筆藤木宏幸、朝日新聞出版、コトバンク、2009年12月25日閲覧。〕)は、日本の俳優、劇作家、ジャーナリストである〔。 == 人物・来歴 == 1866年6月8日(旧暦 慶応2年4月25日)、京都府に生まれる〔。 長じて、京都市河原町通三條大黒町(現在の同市中京区大黒町)にあった平民新聞社で雑誌『活眼』の記者となり〔、1888年(明治21年)、中江兆民を主筆に大阪で創刊された『東雲新聞』(東雲新聞社)〔東雲新聞 、デジタル大辞泉、小学館、コトバンク、2009年12月25日閲覧。〕の記者となる〔。このころ、川上音二郎と知り合う〔。 1891年(明治24年)、川上音二郎が堺で旗揚げした書生芝居に参加、『板垣君遭難実記』、『日清戦争』等の戯曲を執筆、俳優としても舞台に立った〔。「川上音二郎一座」の副将となった〔。高田実らとも共演した〔。当時の当たり役は、尾崎紅葉の『金色夜叉』の「貫一」、菊池幽芳の『己が罪』の「塚口」等であった〔。 1908年(明治41年)11月11日、自費で、東京・牛込に東京俳優養成所を開設した〔。1910年(明治43年)、東京俳優学校と改称、1911年(明治44年)には閉校となった。諸口十九、田中栄三、勝見庸太郎、新井淳らを輩出した。このころから、吉沢商店目黒撮影所の映画に出演を始める。同撮影所は、吉沢商店が合併して日活となった翌年の1913年(大正2年)には日活向島撮影所となり、閉鎖された。日活向島の映画にも引き続き出演した。 1917年(大正6年)3月3日、東京府東京市浅草区今戸町(現在の東京都台東区今戸)で死去した〔。満50歳没。青山霊園に眠る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤沢浅二郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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