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藤田山忠義(ふじたやま ただよし、1924年2月11日 - 1969年5月9日)は、福岡県田川郡(現在の田川市)出身で高砂部屋(入門時は片男波部屋)所属の元大相撲力士、日本プロレス所属のプロレスラー。大相撲時代は1950年前後に活躍し、最高位は西前頭12枚目(1950年1月場所)。大相撲時代の体格は身長167cm、体重113kg。得意手は押し。本名は藤田忠義(ふじた ただよし)。 == 来歴 == 元幕内・開月の片男波部屋に入門、1939年(昭和14年)1月場所に本名の藤田の四股名で初土俵を踏んだ。順調に出世して、1944年(昭和19年)5月場所で新十両へ昇進を果たした。その間、片男波部屋が閉鎖されたため、1943年(昭和18年)5月場所からは片男波親方の師匠であった三杉磯の経営する花籠部屋に移籍している。さらに、その花籠親方も1947年(昭和22年)11月に花籠部屋を閉じたため高砂部屋(横綱・前田山)に移籍して、新入幕を果たした同年11月場所からは高砂部屋所属で土俵に上がることになった。 1951年(昭和26年)には、高砂親方(横綱・前田山)を団長にしたアメリカ巡業のメンバーとして、大ノ海、八方山とともに渡米した。6月30日に日本を発ったのだが契約上のトラブルがあり、9月場所までに帰国が間に合わず3力士とも休場ということになってしまった。このときは、ハワイからはじまり、ロスアンゼルス、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨーク、マイアミなど、全米各地を飛び回り公演している〔佐竹義惇『戦後新入幕力士物語』第一巻1990年ベースボールマガジン社P100〕。結局、高砂親方は11月7日、八方山は12月31日、大ノ海と藤田山は翌年の1952年(昭和27年)1月9日に帰国することになった。帰国したときには同年1月場所の番付はすでに発表されており、藤田山は十両に陥落していた。しかし、1月12日初日の場所で十両優勝をなしとげ、1場所で幕内復帰を果たした。 1954年(昭和29年)1月場所で幕下に陥落し、同年9月場所限りで現役を引退した。相撲協会に残らず廃業し、プロレス界入りをした。黒澤明監督の映画『どん底』にも出演した。 21世紀の入門規定では新弟子検査ではねられる167cmの短身ながら太鼓腹の肥満体で、大銀杏を結えないほどに頭髪が薄く、その風貌から土俵上の三枚目ともいうべき役回りを果たし、「キューピーさん」の愛称で親しまれた。本名の藤田に「山」を足したり取ったりすること5回、しまいには当時の出羽海理事長(横綱・常ノ花)から「お前は『藤田』なのか『藤田山』なのか、一つに決めろ! 見てる方が混乱する!」と怒鳴られ、当人の「でもどっちにすれば・・・」出羽海の「どっちでもいいよ! どっちも大して変わらんじゃないか。」の問答の末、最終的には理事長の鶴の一声で「今後絶対に『山』を取るなよ!」と言われて『藤田山』に定着させられたという。相撲甚句も上手で、「女迷わす藤田山」と締めて満場の笑いを取ったという。先述の渡米巡業中でも八方山とともに数々の珍談をまいたという。力士仲間からも好かれた人物だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田山忠義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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