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藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督、脚本家、映画プロデューサー、劇作家、演出家である〔キネ旬, p.341-342.〕〔田中, p.85-86.〕〔年鑑, p.385.〕〔年鑑, p.403.〕〔年鑑, p.325-332, 391.〕〔''藤田潤一''、''jlogos.com'', エア、2014年9月2日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''・''三田一''・''藤田潤八''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''・''三田一''・''藤田潤八''・''岡野進''、日本映画情報システム、文化庁、2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''、日本映画製作者連盟、2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''・''藤田潤八''、KINENOTE, 2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''・''三田一''・''藤田潤八''、allcinema, 2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''・''三田一''・''藤田潤八''・''岡野進''、日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。〕〔''Junichi Fujita''、インターネット・ムービー・データベース 、2014年9月2日閲覧。〕〔''藤田潤一''、テレビドラマデータベース、2014年9月2日閲覧。〕〔学術情報検索システム 著者名等検索 検索結果、早稲田大学、2014年9月2日閲覧。〕。本名同じ。牧野省三のマキノ・プロダクションの助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社、新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した〔〔〔〔。山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション、日活、東宝映画と転々とした〔〔〔〔。第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し〔、初期のテレビ放送劇の台本も書いた〔。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)〔〔〔〔〔、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった〔〔〔〔〔。連続テレビ映画『遊星王子』の監督としても知られる〔〔遊星王子 、宣弘社、2014年9月2日閲覧。〕。 == 人物・来歴 == === マキノから鳴滝組の時代 === 1910年(明治43年)、兵庫県有馬郡三田町(現在の同県三田市)に生まれる〔〔。 1920年代にマキノ・プロダクションに入社、助監督を務め、中島宝三(1904年 - 没年不詳)に師事する〔〔。1929年(昭和4年)からは中島作品のために脚本を書く〔〔。同年7月25日、同社代表の牧野省三が死去し、同年9月にマキノ正博による新体制が発表になるが、当時助監督であった藤田の名はその一覧表には登場しない〔1929年 マキノ・プロダクション(御室撮影所)所員録 、立命館大学、2014年9月2日閲覧。〕。師の中島が1930年(昭和5年)末に同社を退社し帝国キネマ演芸に移籍すると〔キネ旬, p.284.〕、明けて1931年(昭和6年)1月30日に公開された『幕末風雲記 堀新兵衛の巻 新門辰五郎の巻 清水次郎長の巻』(監督マキノ正博・稲葉蛟児・久保為義)の脚本を最後に同社を退社、東京・巣鴨の河合映画製作社(代表・河合徳三郎)に移籍した〔〔〔。翻案・オリジナル含めて14本の脚本を量産し、1932年(昭和7年)7月22日に公開された琴糸路の主演映画『人生の岐路』(監督吉村操)を最後に、師の中島がいる京都の新興キネマに移籍、『人生の岐路』公開の翌日である同23日に公開された『父をたづねて三千里』(監督川手二郎)ではすでに藤田の脚本を使用していた〔〔〔。いっぽう師の中島は同年末には、中島が1年半在籍した河合映画製作社に移籍している〔。 藤田が監督としてデビューしたのは、満24歳になる年にあたる1934年(昭和9年)7月26日に公開された小金井勝の主演映画『肥後の駒下駄』(原作・脚本上島量)である〔〔〔〔。『日本映画監督全集』の藤田の項を執筆した岸松雄は、偶然、同作のクランクアップの日に京都の新興キネマの撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)を訪れ、その疲れた顔をよく記憶しているという〔。岸が同撮影所を訪れたのは、山中貞雄と親交があったからで、当時山中は、三村伸太郎、稲垣浩、八尋不二、滝沢英輔、藤井滋司、土肥正幹(鈴木桃作)、萩原遼とともに「鳴滝組」と称した脚本グループとしても活動しており〔、2014年9月2日閲覧。〕〔猪俣・田山, p.112.〕〔新藤, p.139.〕、藤田はこの集団に井上金太郎、荒井良平、石田民三らとともに、鳴滝のアウトサイダーとして参加していた〔〔。「鳴滝組」が集団執筆したときの脚本クレジットの「梶原金八」は、8人のメンバー数から命名されたが、それが増えても「八」で固定された〔〔〔。 1935年(昭和10年)3月7日に公開された河津清三郎の主演映画『春雪白日夢』(脚本八尋不二)で、藤田は監督のほか、原作者三田 一としてクレジットされて以来、これを脚本家としての別名として使用するようになり、1936年(昭和11年)1月25日に公開された杉山昌三九の主演映画『闇討仁義 雪宵鴉』(原作木村恵吾)では、「三田一」名義で脚本・監督としてクレジットされた〔〔〔〔。同年、片岡千恵蔵プロダクションに移籍、同年7月31日公開の『女殺油地獄』(原作近松門左衛門、脚本梶原金八)、1937年(昭和12年)4月15日公開の『浅野内匠頭』(原作・脚本三村伸太郎)の2本の片岡千恵蔵主演作を監督している〔〔〔〔。『女殺油地獄』は藤田の千恵プロ入社第一回作品であり、「鳴滝組」が梶原金八第十六回目作品として取り組んだものであった〔加藤, p.262.〕。「鳴滝組」の三村伸太郎がオリジナル脚本を執筆した『浅野内匠頭』を最後に片岡千恵蔵プロダクションは解散しており、藤田は、同社と配給提携していた日活に片岡以下全員とともに移籍する〔〔〔〔〔片岡千恵蔵プロダクション撮影所 、立命館大学、2014年9月2日閲覧。〕。 藤田は、片岡の日活入社第一作である『謳へ春風』の監督を務め〔、2014年9月2日閲覧。〕、同作は、同年6月3日に公開された〔〔〔〔。藤田が、日活で片岡の主演作を手がけたのは同作が最後になり、月形龍之介の主演作を2作監督したあとは、東宝映画京都撮影所に移籍、1938年(昭和13年)12月8日に公開された『幼い英雄たち』で現代劇に転向した〔〔〔〔。このころ、同撮影所で岸松雄と再会し、藤田と岸は、日活太秦撮影所の前通り(現在の大映通り商店街)にあった二階家で共同生活を始めたという〔。それは女優の白石明子が以前住んでいた物件で、隣には市川男女之助夫妻の住居があった〔。同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)にも出張して9本を監督したが、1941年(昭和16年)5月8日に公開された徳川夢声の主演映画『大いなる感情』(製作竹井諒、原作阿木翁助、脚本外山凡平)を最後に撮影所を去った〔〔〔〔〔年鑑, 12章p.27.〕。 同年3月には、女優の不忍鏡子(本名・進藤幸、1919年 - )と結婚している〔〔キネ旬, p.353.〕。鏡子の姉が、当時、東宝映画東京撮影所の文芸課に所属した阿木翁助(1912年 - 2002年)の妻であったこと、阿木の原作を採用した文芸課長の竹井諒が製作した『大いなる感情』を藤田が監督したこと等に縁があって、見合い結婚したものである〔〔〔。挙式は東京・赤坂の氷川神社で、竹井夫妻を媒酌人として行われた〔〔。鏡子の実兄は、美術デザイナーの進藤誠吾〔、2014年9月2日閲覧。〕(1913年 - 2003年、日本映画・テレビ美術監督協会元理事長)であり、鏡子は結婚を機に引退したものの、藤田は映画一家の一角を担うことになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田潤一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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