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藤田 敏八(ふじた としや、1932年1月16日 - 1997年8月29日)は、日本の映画監督、脚本家、俳優。 ==経歴== 朝鮮・平安北道平壌府(現:朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市)に生まれる。 朝鮮鉄道の社員だった父に従って朝鮮半島を転々と移り住むが、釜山で終戦を迎え、三重県四日市市に引き揚げる。中学に編入後、三重県立神戸高等学校に進学するも、四日市市馳出に戻り三重県立四日市高等学校を卒業。浪人生活を経て東京大学に入学し、文学部仏文科に進む。在学中に演劇に熱中し、俳優座養成所に第5期生として入所する。同期に平幹二朗がいる。 1955年、大学卒業とともに日活に入社。助監督として舛田利雄、蔵原惟繕らにつく。同時に脚本の執筆を始め、三島由紀夫の原作による蔵原惟繕監督作品『愛の渇き』(1967年)において「藤田繁矢」の名で脚本を担当。この作品で日本シナリオ作家協会シナリオ賞を受賞した。同時期に監督に昇進し、『非行少年 陽の出の叫び』(1967年)で監督デビュー。この作品では日本映画監督協会新人賞を受賞した。1968年にはドキュメンタリー『にっぽん零年』(公開は2002年)製作に参加する。その後、藤田繁矢から藤田敏八に改名し、「非行少年」シリーズ、「野良猫ロック」シリーズに続いて、代表作のひとつである『八月の濡れた砂』(1971年)を発表。しかし、この直後、日活はロマンポルノ路線に転換することになる。 1970年代には、ロマンポルノ作品として『エロスは甘き香り』(1973年)、『危険な関係』(1978年)、『もっとしなやかに もっとしたたかに』(1979年)といった佳作を撮る一方で、桃井かおり主演の『赤い鳥逃げた?』(1973年)、梶芽衣子主演の『修羅雪姫』(1973年)、秋吉久美子主演3部作(『赤ちょうちん』、『妹』、『「バージンブルース』、いずれも1974年)といった一般映画や、沢田研二主演の『炎の肖像』(1974年)、山口百恵主演の『天使を誘惑』(1979年)といったアイドル作品を撮り続けた。日活の一般映画『帰らざる日々』(1978年)では山路ふみ子映画賞を受賞している。 一方、学生時代の演劇経験を活かし、俳優として他の監督の作品に散発的に出演していたが、鈴木清順監督作品『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)における演技が高く評価され、日本アカデミー賞優秀助演男優賞を受賞した。その後も浅野温子主演の『スローなブギにしてくれ』(1981年)、大谷直子、石田えり主演によるロマンポルノ作品『ダブルベッド』(1983年)などのメガホンを取るが、しだいに俳優としての活動に重心を移し、監督作品は1988年の『リボルバー』が最後となった。ちなみに、これは藤田の古巣にっかつがロマンポルノを中止して再開しながら数ヶ月で終了した一般映画ブランド「ロッポニカ」の最終作品であり、藤田は『八月の濡れた砂』に続いて、二度にわたって同社の幕引き役を果たす結果となった。 仲間内での愛称は「パキさん」。これは助監督時代に、監督・西河克己から「パキスタンの皇太子みたいな顔をしているね」と言われたことに由来するという。一般には名の「敏八」をそのまま音読みした「ビンパチ」も良く使われる。 女優の赤座美代子との結婚生活を晩年に解消し、4度目の結婚をしている。1997年8月29日、肺癌のため入院していた病院で、肝不全により死去。。奇しくも命日に本人が出演した愛の劇場『ラブの贈りもの2』の最終回が放送され、これが俳優としての遺作となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤田敏八」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toshiya Fujita (director) 」があります。 スポンサード リンク
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