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蘆野 東山(あしの とうざん、元禄9年11月23日(1696年12月17日) - 安永5年6月2日(1776年7月17日))は、江戸時代中期の儒学者、陸奥仙台藩士。本姓は岩淵氏。後に蘆と称する。諱は徳林。初諱は胤保。字は世輔または仲坰。通称は勝之助・勝之丞・善之助・幸七郎・東民。号は東山の他に、渋民・玩易斎・東嶠・梅隠・松窓・柿員・赤蟲・貴明山下幽叟などの別号がある。 == 生涯 == 元禄9年(1696年)、陸奥国磐井郡渋民村(現在の岩手県一関市大東町)の農家に生まれる。 幼い時から稗史を好み、7歳に僧に句読を授けられ、9歳には医術・兵法に及ぶ。15歳になって仙台城下にでて儒学・天文・暦数を学び、正徳5年(1715年)に藩儒・田辺整斎に学ぶ。享保元年(1716年)、京都へ遊学し浅井義斎・三宅尚斎につく。長崎に赴き、享保6年(1721年)に帰国した。 5代藩主・伊達吉村によって儒員に任じられ、農村の生活改善などについて何度も上書し大いに藩主を諫めた。京都で知り合った桑名松雲のかねてからの勧めに従い、江戸に出て室鳩巣に師事し、鳩巣から中国儒家の刑律に関する説を編纂する仕事を引き継ぎ、後に『無刑録』を著するに至った。また、江戸では程朱学の諸本を校訂したり、奥州伊達氏の遠祖と考えられた伊達念西の前後について調査を命じられている。享保20年(1735年)に藩学建設を献策するが許可が下りず、翌年に藩は独自に学問所を建てた。ところが東山が予定していたものより規模は縮小され、また、同僚と講席を争って藩に上訴するまでになり、元文3年(1738年)に藩に譴責され、加美郡宮崎村(現在の宮城県加美郡加美町)に幽閉された。 宝暦11年(1761年)に赦免されて渋民村に帰り、安永5年(1776年)に81歳で死去した。 なお、主著『無刑録』は明治以後3回も刊行され、上書類は『日本経済叢書』『仙台叢書』におさめられている。他の著作に『東山文詩』などがある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘆野東山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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