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蘇我 入鹿(そが の いるか、推古天皇18年(610年)? - 皇極天皇4年(645年)6月12日)は、飛鳥時代の豪族。 大臣として大和朝廷の有力者であったが、大化の改新の前夜乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。 == 生涯 == 以下は主に『日本書紀』などの記述による。日付は旧暦である。 青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。生年は不詳だが、父の蘇我蝦夷の生年は586年頃と言われているため、生年は600年~610年頃と思われる。 蝦夷が大臣であった642年(皇極天皇元年)、皇極天皇の即位に伴い、父に代わって国政を掌理する。 同年7月23日には従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。翌643年(皇極天皇2年)の10月6日には父から独断で大臣を譲られる。 これにより、実質的にも形式的にも蘇我氏の家督を継いだという見方があるが、この頃聖徳太子以来、皇室の周辺に国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まったとされ、入鹿はこのような動きを押さえ蘇我氏の縁の強い古人大兄皇子を天皇につけようと図ったが、そのために邪魔になる聖徳太子の王子、山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。大臣を譲られてから1ヶ月も経たない11月上旬の事である。ただし、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族とはかって殺害した(つまり犯行は入鹿の独断ではない)と『日本書紀』とは矛盾する記載が「藤氏家伝」にある。 644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。 これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちているものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続かなかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変によって、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。享年は一説に35とも。従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。 後日、父・蝦夷も自害し、ここに蘇我宗本家は滅びる。この後も従兄弟の石川麻呂とその弟の蘇我赤兄が大臣を務めるが、石川麻呂はのちに謀反の疑いをかけられ自害し、赤兄も壬申の乱で流罪となり、以降は蘇我氏(石川氏)は納言・参議まで出世するのがやっとな状態となった。かつての勢いは戻らないまま、平安時代初期には公卿が出るのも途絶え、歴史の表舞台から完全に姿を消す事になる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘇我入鹿」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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