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蘇我 韓子(そがの からこ、生年未詳 - 465年5月)は、古墳時代の豪族。蘇我満智の子で、子に蘇我高麗、弟名子媛(穂積押山妻)がいる。「韓子」は母が韓人である子の通称名〔『日本書紀』継体天皇二四年条で、吉備韓子那多利・斯布利について「大日本人娶蕃女所生爲韓子也」と注記されている。〕か。 『日本書紀』によると、蘇我韓子は、465年3月、雄略天皇の命で紀小弓、大伴談、小鹿火宿禰とともに大将に任じられ、新羅が百済地域に進出して城を奪い対馬海域を押さえて倭国と高句麗との交易を妨害しはじめたことに対し、新羅征伐のために朝鮮半島へ渡った。新羅王を一時敗走させるほど奮戦した中で小弓は同月に死去してしまう。代わりにやってきたのが、小弓の息子紀大磐だが、大磐は父の兵馬を引きつぐに飽き足らず、小鹿火宿禰の兵馬と船官を配下に収めて、小鹿火宿禰と対立した。小鹿火宿禰は、大磐が韓子の兵馬も奪うつもりであると韓子に警告し、彼も大磐と対立するようになった。それを知った百済の王は、二人の仲を保とうと、大磐と韓子を百済との国境まで呼び出した。その道中、河にさしかかり馬に水を飲ませたところで、韓子が大磐を後ろから弓で射た。しかし矢は大磐の馬の鞍に当たり、とっさに大磐が射返したところ、その矢が当たった韓子は落馬して河でおぼれ死んだ、とされる。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蘇我韓子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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