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虞荔(ぐ れい、503年 - 561年)は、南朝梁から陳にかけての学者。字は山披。本貫は会稽郡余姚県。 == 経歴 == 梁の平北始興王諮議参軍の虞検の長男として生まれた。9歳のとき、太常の陸倕から五経について一遍に10の問題を出されたが、虞荔はただちに問題ごとの回答を示し、答えを漏らすことがなかったため、陸倕に感心された。会稽郡太守の衡陽王蕭元簡が何胤から虞荔の話を聞いて、主簿として召しだそうとしたが、虞荔は年少を理由に辞退した。成長すると、広く古籍に通じて、文章を得意とした。梁の西中郎行参軍を初任とし、まもなく法曹外兵参軍に任じられ、丹陽詔獄正を兼ねた。梁の武帝が城西に士林館を置くと、虞荔は石碑を製作して奏上した。武帝はこの石碑を館に立てさせ、虞荔を士林学士として任用した。まもなく虞荔は司文郎となり、通直散騎侍郎に転じ、中書舎人を兼ねた。武帝の側近の任にありながら、虞荔は顧協とともに政治に関与しようとせず、西省にあって文章と記録のみにたずさわったので、当時にあって清白と号された。まもなく大著作を兼ねた。 侯景の乱が起こると、虞荔は親族を率いて建康に入り、鎮西諮議参軍に任じられた。建康が陥落すると、郷里に逃げ帰った。侯景の乱が平定されると、元帝に中書侍郎として召されたが、応じなかった。貞陽侯蕭淵明のとき、揚州別駕に任じられたが、赴任しなかった。張彪が会稽郡に割拠したとき、虞荔はちょうど会稽にいた。陳蒨が張彪を平定すると、陳霸先と陳蒨が出仕を強く迫ったため、虞荔はやむなく建康におもむいて、召命に応じた。 559年(永定3年)、陳蒨(文帝)が即位すると、虞荔は太子中庶子に任じられ、皇太子陳伯宗の読書を担当する近侍として仕えた。まもなく大著作・東揚揚二州大中正を兼ねた。561年(天嘉2年)、死去した。享年は59。侍中の位を追贈された。諡は徳子といった。著書に『鼎録』1巻があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「虞レイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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