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蠣崎 波響(かきざき はきょう)/蠣崎 広年(かきざき ひろとし)は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。 == 生涯 == 松前藩12代藩主・松前資広の五男に生まれる。13代藩主・道広は異母兄。母は松前藩の家臣・長倉長左衛門貞義の娘・勘子。家老職を継いだ長男・波鶩(広伴)も画家として知られる。なお、幕末期の家老であった下国崇教も一時期波響の養子であったことがある。 生まれた翌年に父が亡くなり、兄・道広が跡を継いだため、家禄五百石の家老蠣崎家の養子になる。幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝えられる。叔父・広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家・建部凌岱に学ばせた。間が悪く翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事。天明20年(1783年)20歳の時松前に戻り、この年の冬から大原呑響が約一年松前に滞在し、以後親交を結ぶ。波響と号したのはこのころからである。 寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い(寛政蝦夷蜂起)で松前藩に協力したアイヌの酋長を描いた『夷酋列像』(函館市中央図書館に2点所蔵。1980年代にフランスのブザンソン市立美術館で「夷酋列像」11点が発見)を翌年冬に完成させ、これらが後に代表作とされる。寛政3年(1791年)3月に同図を携え上洛、『夷酋列像』は京都で話題となり、光格天皇の天覧に供され、絵師波響の名は一時洛中で知られた。円山応挙につき、その画風を学び以後画風が一変する。文化4年(1807年)、幕府が北海道を直轄地にしたため、松前家は陸奥国伊達郡梁川藩に転封され、波響も梁川に移った。文政4年(1821年)、松前家が松前に復帰すると、波響も翌年松前に戻り、文政9年63歳で没した。 画の門弟に、継嗣の波鶩のほか・高橋波藍・高橋波香・熊坂適山・熊坂蘭斎などがいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蠣崎波響」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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