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街頭テレビ(がいとうテレビ)は、不特定多数の人が集まる場所に設置され、無料で視聴できたテレビ受像機〔語彙・表現は違うが、小学館『日本国語大辞典』の定義に内容が一致。〕。テレビジョン放送およびテレビ(製品)の普及初期には随所に置かれ、大変な人気を博した。 ==概要== 日本におけるテレビ放送は、1950年11月からの定期試験放送期間を経て、1953年2月1日にNHK東京で、次いで同年8月28日には日本テレビ(NTV/日テレ)が本放送を開始した。しかし、当時国内において流通していた受像機は、輸入品が多くを占め、当時の会社員の年収数年分に相当する高額商品でもあり〔高嶺の花であることに加え、1953年の時点では奢侈品であるとして、20%の物品税が課せられていた。なお物品税は1989年に廃止されている。〕、庶民にはなかなか普及せず、一部のアマチュア無線家らが、テレビキットを元に自作していた〔1953年当時のNHKの受信契約数は、本放送開始時に866件、日本テレビ開局時点でも約3000件だった。〕。 日テレは開局当時からコマーシャルを収入源としており、スポンサーを獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。そのため、当時の日本テレビ社長・正力松太郎は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た〔百貨店のうち、OIOI中野店では2階の床が抜けたというエピソードがある。〕。街頭テレビそのものは、試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日テレが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した〔銭湯や飲食店などが客寄せの道具として設置する例も増えたが、一般に開放されたものではないので、街頭テレビの定義からは外れる。〕。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。 その後、街頭テレビの大成功に触発される形で、民放テレビ局が次々と開局し、街頭テレビをさらに普及させた。放送局のみならず、受像機製造メーカーや販売店も競って街頭テレビを設置し、自社製品の優位性を訴えた。 間もなく白黒テレビは家庭へと普及していき、三種の神器の一つに数えられた。特に1958年の東京タワー竣工とミッチー(ご成婚)ブームを境に急速に浸透した。そのため街頭テレビは、1960年より放送を開始したカラーテレビの普及に目的を転じた。しかし1964年の東京オリンピックをきっかけとして、カラーテレビもまた各家庭に浸透していったため、次第に街頭テレビは目的を失い、衰退していった。 しかしながら、公共の場へのテレビの設置自体は廃れることはなく、かつてほどの勢いはないものの、その後もメーカーが新製品の宣伝目的として家電量販店などに設置するなど、街頭テレビに類する存在は現在もなお続いている。1980年代から2000年代初頭にかけて、ハイビジョンの普及目的で受像機が公共の場所に設置されたこともあった。大都市圏においては、その地域をサービスエリアとするケーブルテレビ事業者がサービス宣伝の目的で、主要駅のコンコースなどに複数のチャンネルが見られるモニターを設けている事例もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「街頭テレビ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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