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衛元嵩(えい げんすう、生卒年不詳)とは、中国・北周代の還俗僧であり、廃仏論者である。また、予言を能くした神異の僧としても伝えられる。 == 生涯 == 蜀(四川省)の成都近郊の生まれであるが、祖先は動乱を避けて河東から移住した寒門である。元嵩は、梁末に出家し、成都の野安寺に住していた。元帝政権が西魏に滅ぼされた後、江陵から逃れて来た亡名法師の門下に入った。成都の街巷では、風狂の所行が見られたという。その後、蜀の武陵王の政権も、北周に制圧されたので、長安に向かった。 長安で、天和2年(567年)に武帝に対して、廃仏案を上進した。そこでは、「曲見伽藍」と糾弾している僧寺を廃して、広く人民を利益し、国力を増強することこそが、大乗菩薩道にかなっていることが述べられ、その理想の様を「平延大寺」と称している。 天和2年当時の実権者は、奉仏者としても知られた大冢宰の宇文護であり、武帝自身も傀儡状態にあり、三教談論など、政治の実権とは無縁の世界に没頭するより他ない状態であった。それが、建徳元年(572年)のクーデターによって宇文護を誅殺したところから、武帝の親政が始まった。武徳3年(574年)、遂に道仏二教を廃する詔が発せられた。そして、そのひと月後には、通道観を設置して学士を置くことが宣せられた。 元嵩は、その後、爵蜀郡公を賜った、という記述が、その著書で陰陽術数に関する書物である『元包』の序に見えるが、詳細は不明である。また、元嵩は、「千字詩」という千字文に類した詩を残した、と伝記中に記されており、それが、隋より唐の前半期に王朝交代に利用された、元嵩作とされる予言詩の根拠となっているものと考えられる。 また、元嵩には、「斉三教論」7巻の著作があったことが、『旧唐書』「経籍志」と『新唐書』「芸文志」の子部・道家類に著録されている。但し、既に散佚しており、その逸文も見られないことから、その内容を知ることは出来ない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「衛元嵩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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