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衣笠城合戦 : ミニ英和和英辞書
衣笠城合戦[きぬがさじょうかっせん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ころも]
 【名詞】 1. clothes 
: [かさ]
 【名詞】 1. (bamboo) hat 2. shade 
: [しろ]
 【名詞】 1. castle 
: [ごう]
 【名詞】 1. go (approx. 0.18l or 0.33m) 
合戦 : [かっせん]
 【名詞】 1. battle 2. engagement 
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 

衣笠城合戦 : ウィキペディア日本語版
衣笠城合戦[きぬがさじょうかっせん]

衣笠城合戦(きぬがさじょうかっせん)は、治承4年8月26日1180年9月17日)、相模国衣笠城(現神奈川県横須賀市衣笠町)で起こった秩父氏平家方)と三浦氏源氏方)による戦い。平安時代末期の内乱である治承・寿永の乱の合戦の一つ。
== 経過 ==
治承4年(1180年)8月17日の源頼朝の挙兵に対し、源氏方に付いた三浦氏は22日に三浦を出発したが、大雨のため頼朝軍と合流出来ず、23日の石橋山の戦いの頼朝軍敗北により三浦に引き返した。平家方の武将である武蔵国畠山重忠は頼朝挙兵の報を受けて家子郎党を率いて出陣し、23日夜に金江河(現平塚市花水川)に陣をとっていた。24日、三浦一族は鎌倉の由比ヶ浜で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇。和田義盛が名乗りをあげて、双方対峙した。同じ東国武士の見知った仲で縁戚も多く、和平が成りかかったが、遅れて来て事情を知らない義盛の弟の和田義茂が畠山勢に討ちかかってしまい、これに怒った畠山勢が応戦。義茂を死なすなと三浦勢も攻めかかって合戦となった。双方に少なからぬ討ち死にしたものが出た。停戦がなり、双方が兵を退いた(小壺坂合戦、小坪合戦)。
『源平盛衰記』によると、三浦は小坪の峠に300騎、畠山は稲瀬川の辺りに500騎で対陣したという。重忠は郎従50名余りの首を取られて退却、三浦氏は死者を出しながらも本拠地の三浦にたどり着いた。
26日、重忠は同じ秩父氏の総領家である河越重頼に加勢を呼びかけ、重頼は同族の江戸重長と共に数千騎の武士団を率いて重忠軍に合流し、三浦氏の本拠地である衣笠城を攻撃する。
先の合戦で消耗していた三浦氏は夜になって衣笠城を放棄して脱出し、頼朝軍と合流するべく安房国へ向かい、27日、衣笠城は秩父軍によって攻め落とされた。落城の際、89歳の老齢であった三浦一門の当主三浦義明が城に残り、外孫である重忠らによって討たれた。『吾妻鏡』によると義明は「我は源氏累代の家人として、老齢にしてその貴種再興にめぐりあうことができた。今は老いた命を武衛(頼朝)に捧げ、子孫の手柄としたい」とし、壮絶な最期を遂げたとするが、『延慶本平家物語』では三浦氏の軍勢が城を脱出する際に、老齢の義明が足手まといとなって置き去りにしたとされている。
安房国で三浦一族と合流した頼朝軍は、房総半島の二大勢力千葉常胤上総広常を傘下に加え、大軍となって再挙し、10月2日に武蔵国へ入ると、4日に畠山重忠・河越重頼・江戸重長ら秩父一族は長井の渡で頼朝に帰伏した。『吾妻鏡』によると、頼朝は「重長らは源家に弓を引いた者であるが、このように勢力の有る者を取り立てなければ目的は成し遂げられないであろう。憤懣を残してはならない」と三浦一族に言い聞かせ、三浦氏は異心を抱かないとして、重忠らとお互いに目を合わせ、納得して席に並んだという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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