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袁術 : ウィキペディア日本語版
袁術[えん じゅつ]

袁 術(えん じゅつ/すい〔『資治通鑑音注』、盧弼『三国志集解』〕、)は、中国後漢末期の武将・政治家。
父は袁逢司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗
後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に破れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝の血族である宣公時代の大夫轅濤塗の末裔と称した。を自称し仲王朝を創設したが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。
== 生涯 ==

=== 御曹司から諸侯へ ===
青年期は侠人として知られ、仲間達と放蕩な生活を行っていたが、後に改心した。同族の袁紹が自身より声望が高いことを妬み、袁紹の出自の低さをたびたび持ち出して中傷、さらに袁紹と交際する何顒らを憎悪した。
孝廉に推挙され郎中に就任、官は河南尹から折衝校尉虎賁中郎将に至った。
中平6年(189年)の霊帝崩御後、大将軍の何進による宦官皆殺し計画に袁紹や曹操と共に参加。何進が十常侍により暗殺されると、袁隗や袁紹と共に宮中に乱入し、宦官数千名を誅殺した。
董卓の入京後に後将軍へ任じられた。当初は洛陽にとどまっており、曹操が洛陽から逃亡した後、曹操の夫人卞氏に曹操の情報を伝えに行ったりしている。後に害が及ぶのを怖れて荊州南陽へ逃れた。ちょうど反董卓のために挙兵し北上してきた長沙太守の孫堅が南陽太守の張資を殺害していたところであったため、袁術はその後任として南陽を支配し、孫堅を影響下においた〔『三国志』魏志「武帝紀」では、袁紹らと共に正月に一斉に挙兵したとある〕。孫堅を豫州刺史に任じ、董卓を攻撃させ、初平2年(191年)には董卓の軍を破り(陽人の戦い)、4月に洛陽を占領する戦果を挙げた(『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」)。南陽郡は人口が多く豊かであったが、袁術が奢侈な生活を追求し、過酷な徴税を行ったために民衆は苦しんだという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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