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袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。高祖父は袁安。曾祖父は袁京。祖父は袁湯。父は袁成、または袁逢〔『魏書』(王沈撰)や『後漢書』(袁山松撰)によれば、袁紹は袁術の異母兄弟であるという。また、王沈らの説に基づけば、袁紹は袁逢の庶子で、伯父の袁成の養子となって後を継いだという。〕。叔父は袁隗。従兄弟(異説あり)は袁基・袁術。妻は劉氏。子は袁譚・袁煕・袁尚(母は劉氏)〔袁買という人物には「袁尚の弟」「袁尚の兄の子」という2説がある。前者は『三国志』魏書6付袁譚袁尚伝に引く『呉書』により、これによれば袁買は袁煕・袁尚と共に遼東へ逃れたという。後者は同じく袁譚袁尚伝に引く『曹瞞伝』による。〕。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされたが、後に関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。 == 生涯 == === 名門の実力者 === 後漢時代に4代にわたって三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、袁逢・袁隗の次の世代の人物にあたる。 袁紹の前半生ははっきりしないが、一説(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)によれば、生まれて間もなく父の袁成と死別し、叔父の袁逢と袁隗に育てられたという。幼少にして郎に取り立てられ、20歳で濮陽の県令に任命されると清廉との評判を得た。母が亡くなると3年の喪に服し、喪が明けると更に父の喪にも服し、孝を尽くした。6年間の服葬の後、洛陽に隠れ住んだ。むやみに人と会わず、名声の高い人物とのみ交際したという。 袁紹は威厳がある風貌をしており、また名門出身にも係わらず謙虚であったため、曹操ら大勢の人々から慕われたという。一説(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)には遊侠を好み、張邈(孟卓)・何顒(伯求)・許攸(子遠)・伍孚(徳瑜)・呉子卿(諱は不詳)らの名士と「奔走の友」としての交わりを結んだ。朝廷からの招聘には応じなかった。 同世代の袁氏有力者として袁術がいた。宗族の長は袁紹と袁術のいずれか〔なお、袁紹の異母兄(袁術と同母兄弟)に、太僕まで上った袁基がいる。〕と目されており、都にいた地方の豪族子弟はこぞって両家に赴いたが、何や許攸らは袁術のもとには赴かなかったという。このため、袁氏の正嫡であると自負していた袁術に憎まれ、後に対立する一因となった。 当時、朝廷の政治を壟断していた宦官の趙忠らは、袁紹の行動を不審に思い危険視していた。そのことを聞いた叔父の袁隗は、一族を滅ぼすつもりかと袁紹を叱ったという(『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』)。そのため、何進の掾(属官)に召されるとようやく官途に就くことにした。間もなく侍御史・虎賁中郎将と累進し、188年には中軍校尉(西園八校尉の一つ)も兼ねた。 189年5月〔『後漢書』「霊帝紀」〕、俄かに霊帝が崩御すると、子の劉弁(後の少帝)を支持する何皇后と、劉協(陳留王、後の献帝)を支持する董太后との間で後継争いが起こった。劉協派の宦官の蹇碩は、何進を暗殺しようと図ったが失敗し、劉弁が即位した。劉協派を粛清し外戚として権力を握った何進は、さらに十常侍ら宦官勢力の一掃を袁術と図る。しかし、皇太后(何皇后)は宦官から賄賂を受けていたので、許可しなかった。また、宦官側もしきりに何進に留意を促したため、計画は進展しなかった〔『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『英雄記』及び『九州春秋』〕。 そこで袁紹は、董卓ら諸侯の軍勢を洛陽に召集し、皇太后に決断を迫るよう献策した。その策は何進に採用されたが、後に董卓と諸侯の権力闘争の遠因となった。何進は袁紹を司隷校尉に任じて、兵権を与え洛陽の武官の取りまとめを任せ、また虎賁中郎将の袁術に命じて宦官から武力を取り上げようとした。しかし、時機を逸した上に秘密が漏れ、逆に何進は宦官に暗殺された〔『三国志』魏書「袁紹伝」によると、さらに宦官は偽の詔勅を出して許相を司隷校尉に任命し、袁紹から兵権を奪おうとした。しかし、『後漢記』などには、許相は河南尹とあり、樊陵が司隷校尉となっている〕。ここに至って袁紹は宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにした〔死者は2,000人余りに及び、髭が薄いために誤って殺された者もいたという。〕。 その後、董卓が混乱に乗じて洛陽に入り、武力を背景に朝廷の実権を握ると、袁紹と董卓の間に確執が生じる。董卓が少帝の廃立を諸侯に提議すると、袁紹はこれに反対して席を立ち、そのまま冀州に逃亡した〔『三国志』魏志「袁紹伝」が引く『九州春秋』によると、董卓を罵倒して立ち去ったという〕。初め董卓は賞金を懸けて袁紹の行方を追っていたが、袁氏の勢力が結集することを恐れると、罪を赦して勃海郡の太守に任命し、コウ郷侯に封じた〔『三国志』魏志「袁紹伝」によると、袁紹と心を通わせていた侍中の周毖・城門校尉の伍瓊・議郎の何顒らが諫言した結果、董卓は考えを変え、袁紹を勃海太守に任じた〕。 初平元年(190年)正月〔『三国志』魏志「武帝紀」〕、東郡太守橋瑁の呼びかけ〔小説『三国志演義』では曹操の呼びかけ〕により、各地の刺史や太守が打倒董卓の兵を挙げた。決起の檄文は冀州にも届き、袁紹もこれに応じた〔『三国志』魏志「武帝紀」が引く『英雄記』によると、刺史の韓馥はそれまで袁紹を監視していたが、決起の檄文を受けてようやく袁紹の挙兵を認めたという〕。同盟軍(反董卓連合軍)の盟主に推薦されると、車騎将軍を自称し、河内郡に駐屯した。しかし、袁紹は董卓軍の強さを恐れ、果敢に洛陽を攻めようとはしなかった。そのため、決戦を主張する曹操らから批判された。袁紹らの挙兵を受け、董卓は2月に長安への遷都を行い、洛陽に火を放った。袁隗・袁基ら袁氏一門はことごとく処刑された。これに対し袁紹は、董卓が和睦のために送った使者を捕らえ、執金吾の胡母班らを殺している。 191年正月、袁紹は安否が不明な献帝に代え、幽州にいる大司馬劉虞の擁立を諸侯に図った。しかし、袁術や曹操などから忠義に背く行為であると反対され、さらに劉虞本人からも拒絶されたため断念した。4月、陽人の戦いの後、敗れた董卓は洛陽を捨てて長安に撤退したが、かつての洛陽は焦土と化し、また諸侯の間で内紛も起こり、最終的に連合軍は瓦解した。挙兵の大義を失った諸侯はそれぞれの根拠地へ戻り、自衛や勢力拡張のため相争うようになる。こうして後漢は、各地に群雄が割拠する内乱の時代に入った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「袁紹」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yuan Shao 」があります。 スポンサード リンク
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