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袋中(たいちゅう、天文21年1月29日(1552年2月23日)- 寛永16年1月21日(1639年2月23日))は、江戸時代前期の浄土宗の学僧。陸奥国磐城郡の出身で、道号を弁蓮社入観(べんれんじゃにゅうかん)、法諱を良定(りょうじょう)と号した。まだ見ぬ仏法を求めて明に渡ることを企図し、渡明の便船を求めて琉球王国に滞在。滞在中に琉球での浄土宗布教に努めた。渡明の便船が見つからず帰国した後は、京都三条の檀王法林寺をはじめ多くの浄土寺院の創建や中興をおこなった。 == 生涯 == === 郷里と遊学 === 天文21年1月29日(1552年2月23日)陸奥国磐城郡磐前村西郷(現在の福島県いわき市常磐西郷町)に父・賀茂杢兵衛〔袋中上人の俗姓には諸説ある。『浄土伝燈総系譜』では「姓佐藤氏、奥州菊岡郡人、父名修理亮定衡」、『浄土本朝高僧伝』では「姓崿氏」となっている。『琉球神道記』1943年の巻末にある袋中良定上人伝では、『袋中上人絵詞伝』所載と上人の実兄である以八上人の伝記『以八上人行状記』所載が同一であることを以て、賀茂氏説を採っている。本記事もこの説を採った。〕(法名道祐)と母・八幡氏(法名妙喜)の第3子として生まれた〔『檀王法林寺 袋中上人 - 琉球と京都の架け橋 -』2011年11月。「檀王法林寺の歴史 二 檀王法林寺の開創」より。〕。幼名は徳寿丸。母は陸奥国菊多郡の能満寺の虚空蔵菩薩に祈願して妊娠を覚え、出産の際に右手を握り、37日を経て開くと掌に虚空蔵菩薩の像があったと言われる〔『琉球神道記』1943年10月。巻末の袋中良定上人伝「二、上人の幼時及修行時代」より。〕。 6歳の頃より、毎朝東に向かって日輪を拝し、暮には西に向かって仏名を称したので、両親は徳寿丸が非凡であることを知ったが〔、7歳のある春の夜、徳寿丸は目から光を放ったので、両親は驚き「この子は凡庸の輩ではないので、早く俗塵を脱して精舎(仏門)に入れなければ」と言って、徳寿丸の叔父にあたり、先に長子の以八上人を託していた、菊多郡の能満寺住持である存洞良要に預ける事とした〔。 徳寿丸は5歳で1,000文字を暗記し、6歳で五経を誦したほどの英才であったので、入寺して間も無く三経一論のほか所要の経論を大概暗記した。これに存洞も大いに期待し、永禄8年(1565年)徳寿丸14歳の時に剃髪染布して出家させ、袋中良定と名乗らせた。袋中の名は史記の平原君の語にある「賢士の世に処するや錐の袋中に在るが如く、其の末必ず見われる。」〔「賢人と言うものは錐を袋中に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものだ」という意味で、ことわざ「嚢中の錐」の原典。〕に因っている。 袋中が16歳の時、存洞は更に彼の学解を磨くため菊多郡矢目の如来寺に預け、次いで元亀2年(1571年)20歳の頃に山崎の専称寺へ修行のため行脚させた。さらに専称寺の本山である下野国大澤の円通寺で修行し、比叡山の高僧法泉僧正に大戒の受得を懇請して聖衆来迎寺で円頓戒〔天台宗では、個々がお互いを完全に具えあい、しかも自在に融通しあっているその全運動こそが法界(時間を含む全宇宙)の姿だとし、一切は互いに具え円に融けあっていると説く。これを「円教」と呼ぶ。「円頓戒」とは円教の理念に基づき、僧俗を一貫する菩薩の戒法として創出された実践行のひとつで、その骨子は、仏の活きた万徳を直接仏から授かると言うもの。〕を授けられている。天正4年(1576年)25歳の時に江戸増上寺に入衆して浄土宗白旗派の奥義を極め、さらに足利学校において禅を学んだ。 天正8年(1580年)29歳の時に故郷の成徳寺より住持就任の懇請があった。郷里の両親も気にかかったことから、これを引き受け成徳寺13世となる〔。住持就任後は、郷里の教化を進めながら数点の著作物を残してる。慶長4年(1599年)48歳の時に太守岩城貞隆が袋中に深く帰仰し、城内に一宇を創して菩提院袋中寺と名付けた。関ヶ原の戦い後、岩城貞隆が出羽国に改易されると、袋中寺は城外へ移され、児島菴袋中寺〔現在、福島県いわき市平にある涅槃山菩提院の前身。〕と名を改めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「袋中」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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