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裴休(はいきゅう, 791年 - 864年)は、中国・唐中期の政治家。 孟州済源県(河南省済源市)の出身で、本籍地は河東の聞喜県(山西省聞喜県)である。字は公美。浙東観察使裴粛の次男に生まれる。 長慶年間(821年 - 825年)科挙や賢良方正に合格して官僚となり、監察御史や地方の観察使を歴任し、849年に中央に復帰し、851年からは塩鉄転運使として漕米の法を改正し、また税茶の法を創設して財政を建て直し、その功で852年に同中書門下平章事(宰相)となった。宰相が自ら『時政記』を書くことは、彼が最初である。 5年後、宰相のまま、地方に出され、暫くして再び中央に返り咲き、戸部尚書等を経て、その後没した。 彼は、詩文にも長じ、宣宗から真の儒者であると賞されるほどの、儒教官僚であったものの、熱心な仏教徒の家庭に生まれたため、幼少時から肉や葷を食べず、黄檗希運や圭峯宗密と交流し、『裴休拾遺問』などの著作を残している。 == 略歴 == *791年 孟州済源県(河南省済源市)にて誕生 *802年 父の裴粛が死去 *822年 科挙に進士及第 *828年 賢良方正能直言極諫科に甲科(首席)合格、右補闕に就任 *830年 監察御史に就任 *832年 史館修撰に就任 *841年 江西観察使へ転任 *843年 湖南観察使へ転任 *847年 宣歙観察使へ転任 *849年 礼部侍郎として中央に復帰 *850年 戸部侍郎へ転任 *851年 兵部侍郎、塩鉄転運使、更に礼部尚書へ転任 *852年 同中書門下平章事(宰相)へ昇進 *856年 太子少保、分司東都、更に宣武軍節度使へ転任 *857年 昭義節度使へ転任 *859年 河東節度使へ転任 *860年 鳳翔節度使へ転任 *861年 戸部尚書として中央へ復帰 *862年 荊南節度使へ転任 *864年 任地で死去 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「裴休」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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