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裴叔業 : ウィキペディア日本語版
裴叔業[はい しゅくぎょう]
裴 叔業(はい しゅくぎょう、438年 - 500年)は、中国南北朝時代軍人本貫河東郡聞喜県
== 経歴 ==
裴順宗の子として生まれた。若くして弓射や乗馬を得意とし、武才があった。元徽末年、累進して羽林監となり、蕭道成の下で驃騎行参軍をつとめた。479年建元元年)、が建国されると、叔業は屯騎校尉に任じられた。北魏の軍が司州豫州に進攻してくると、叔業は軍主として迎撃にあたった。480年(建元2年)、成都皇子を派遣して益梁南秦三州刺史に任じ、巴蜀の地を統治させるよう上書した。寧朔将軍の号を受けた。486年永明4年)、右軍将軍の号を受け、東中郎諮議参軍となった。
487年(永明5年)、西昌侯蕭鸞が豫州刺史となると、叔業はその下で右軍司馬となり、建威将軍・軍主の位を加えられ、陳留郡太守を兼ねた。489年(永明7年)、王敬則の下で征西司馬となった。490年(永明8年)、王敬則が驃騎大将軍となると、叔業は驃騎司馬に転じた。491年(永明9年)、寧蛮長史・広平郡太守となった。493年(永明11年)、部下を率いて襄陽の城内で起兵し、雍州刺史の王奐を殺害した。武帝は叔業の才能を認めて、晋安王蕭子懋の下につけて征北諮議・領中兵・扶風郡太守に任じた。494年隆昌元年)、晋熙王蕭銶の下で冠軍司馬となった。同年(延興元年)、寧朔将軍の号を加えられた。叔業は宣城公蕭鸞と親しく、蕭鸞が輔政の座につくと、叔業を腹心として信任した。
495年建武2年)、北魏の軍が徐州を包囲すると、叔業は軍主として蕭坦之の下に属して徐州の救援にあたった。淮水の柵外に置かれた北魏の2城を攻撃して落とし、魏兵の多くを水死に追いこんだ。黄門侍郎に任じられ、武昌県伯に封じられた。持節・督徐州軍事・冠軍将軍・徐州刺史となった。497年(建武4年)、北魏が沔北に進攻してくると、叔業は明帝(蕭鸞)の命を受けて雍州を救援した。督豫州・輔国将軍・豫州刺史に任じられた。
498年永泰元年)、叔業は孫令終・劉思效・李僧護ら5万人を率いて北魏の南兗州の置かれた渦陽を包囲した。北魏の南兗州刺史の孟表が渦陽を守備して抗戦したため、叔業は魏兵の首級を高さ五丈まで積み上げて城内に見せつけた。叔業は軍主の蕭璝・成宝真を分遣して龍亢戍(北魏の馬頭郡)を攻撃させた。北魏の広陵王元羽が2万人を率いて龍亢の援軍にかけつけると、叔業も3万人あまりを率いて蕭璝らを助け、魏軍を撃破した。敗走する元羽を追撃し、魏軍の後詰めとしてやってきた劉藻・高聡らを迎撃してまた撃破した。北魏の孝文帝は元羽の敗北を聞くと、王肅楊大眼らに18万の兵を与えて渦陽を救援させた。叔業は敵の多勢をおそれて、夜間に撤退を開始した。翌日、斉軍は大敗を喫して、魏軍の追撃を受け、殺傷される者は数え切れないほどであった。日暮れになってようやく追撃はやみ、叔業は渦口まで退いて守った。明帝が死去すると、叔業は寿春に帰還した。蕭宝巻が即位すると、建康では政変が多発し、大臣たちが多く殺害された。叔業は寿春城にあって情勢を観望した。499年永元元年)、督南兗兗徐青冀五州軍事・南兗州刺史に転じた。徐世檦らは叔業が反乱を起こすとにらんで、南兗州への赴任を中止させた。叔業は子の裴芬之らを人質として建康に送った。500年(永元2年)、冠軍将軍の号を受けた。建康において叔業の反乱を噂する者が絶えず、裴芬之は恐れて寿春に逃げ帰ってきた。蕭宝巻は叔業に対する討伐を命じ、護軍将軍の崔慧景や豫州刺史の蕭懿らを派遣して、軍を小峴に駐屯させた。ときに叔業は病床にあり、裴植洛陽に派遣して北魏の救援を求めさせた。さらに裴芬之を人質として北魏に送った。叔業はまもなく死去した。享年は63。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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