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裴果[はい か] 裴 果(はい か、生年不詳 - 567年)は、中国の北魏から北周にかけての軍人・政治家。字は戎昭。本貫は河東郡聞喜県。 == 経歴 == 北魏の斉州刺史の裴遵の子として生まれた。前将軍・乾河軍主を初任とし、陽平郡丞に任ぜられた。宇文泰が并州に使者として立ったとき、裴果はその知遇をえた。529年、叛乱の討伐に従軍して、青袍を着て黄驄馬(黄色い葦毛の馬)に乗り、先頭に立って戦って敵陣を落としたので、「黄驄年少」と称された。532年、河北郡太守に任じられた。 537年、高歓が沙苑の戦いで敗れると、裴果は一族を率いて西魏に帰順した。538年の河橋の戦いや542年の玉壁の戦いに従軍して活躍した。543年、邙山の戦いに参加し、東魏の都督の賀婁烏蘭を生け捕りにした。帳内都督に補任され、平東将軍に転じた。後に楊忠の下で隨郡と安陸郡を平定し、功績により大都督の位を加えられ、正平郡太守に任じられた。権威と刑罰をふるって民衆に恐れられたが、叛乱も息をひそめた。使持節・車騎大将軍・儀同三司・散騎常侍・司農卿に転じた。553年、尉遅迥の下で蜀を征討した。前軍に属して転戦し、剣閣を落とし、李慶保を破り、楊乾運を降すのに、いずれも功績があった。554年、龍州刺史に任ぜられ、冠軍県侯に封ぜられた。ときに龍州の民の張道と李祏が民衆を率いて蜂起し、州城を包囲した。龍州城には食糧と武器の備蓄がなく、兵士もまた少なかったので、裴果は計略を用いて防戦すると、叛乱軍は退却した。そこで裴果は出兵して追撃し、連戦して撃破した。わずかの間に、龍州の治安を回復させた。後に陵州刺史に転じた。 557年、北周が建国されると、隆州刺史に任ぜられた。使持節・驃騎大将軍・開府儀同三司の位を加えられ、爵位は公に進んだ。560年、眉州刺史に転じた。565年、復州刺史となった。裴果の性格は厳格で、決断は果断即決であり、数州の刺史を歴任して豪族を抑制した。567年、在官のまま死去した。本官に加えて絳晋建三州刺史の位を追贈された。諡は質といった。 子の裴孝仁が後を嗣ぎ、建州・譙州・亳州の刺史を歴任した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「裴果」の詳細全文を読む
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