|
裴迪(はい てき、生卒年不詳)は、中国・五代後梁の武将である。その本貫は河東聞喜(山西省聞喜県)、名族の出身である。 == 生涯 == 財務に精通しており、簿書を能くしたため、唐末に裴璩の属官となり、汴宋鄲等州供軍院使、租庸招納使を務めた。 後梁の太祖となる朱全忠が宣武に鎮すると、招かれて節度判官となった。裴迪は兵賦徴調を管掌し、太祖自身は兵を統括するのみで、財政や獄訴は全て裴迪が管轄した。 朱全忠が西の方の岐を征討した際、その隙に王師範が都の汴京を襲おうとしたが、その密謀を事前に暴き、その功によって、右僕射、司空に任ぜられた。官を辞して後、没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「裴迪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|