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襄宗 ( リダイレクト:襄宗 (西夏) ) : ウィキペディア日本語版
襄宗 (西夏)[じょうそう]

襄宗(じょうそう)は西夏の第7代皇帝安全。越王李仁友(第5代皇帝仁宗の弟)の子。
== 生涯 ==
応天元年(1206年)に従弟に当たる第6代皇帝の桓宗を、その生母である羅太后や臣下の協力の元に廃位して〔「七月、使純佑母羅氏為表、言純佑不能嗣守、与大臣定議立安全為王、遣使奏告。」、『金史』巻134、列伝72、外国上〕自ら即位し、から王に封ぜられた。
応天2年(1207年)秋に貢物の未納を理由としたモンゴル軍の2度目の侵入を受け、領土の一部が掠奪を受けた〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注)、90頁〕。応天4年(1209年)の秋〔『元史』巻1、本紀1、太祖、四年の条〕、チンギス・ハーンによるモンゴル軍の第3次侵攻が始まった。皇太子〔『新元史』巻3、本紀3、太祖下、五年の条では、モンゴルに敗れた世子(皇太子)を李遵頊(次代の神宗)としている。〕が率いる軍隊は敗れ、領土の北方にあるウラカイ城〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注)、94頁〕、夷門が奪われ、高令公ら戦闘に参加した将校はモンゴルの捕虜となった。首都興慶府の周囲にはモンゴル軍の包囲が敷かれ、チンギス・カンは河水による水攻めを行おうとするが、建造した堤防が決壊して水がモンゴル軍の陣営に流れ込んだために包囲が解かれた〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注)、94頁 『元史』巻1、本紀1、太祖、四年の条〕〔C.M.ドーソン『モンゴル帝国史』1巻(佐口透訳注)、94頁では、水攻めを行ったのは西夏側であるという解釈、『集史』には水攻めについての記述が無いことが述べられている。〕。年内にモンゴルから使節が派遣され、皇女を献上する条件で和議が結ばれた〔「遣太傅訛答入中興、招諭夏主、夏主納女請和。」 『元史』巻1、本紀1、太祖、四年の条〕。
1211年8月5日に崩御した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Xiangzong of Western Xia 」があります。




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