|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 西 : [にし] 【名詞】 1. west ・ 住 : [じゅう] 【名詞】 1. dwelling 2. living ・ 次 : [つぎ] 1. (n,adj-no) (1) next 2. following 3. subsequent 4. (2) stage 5. station
西住 小次郎(にしずみ こじろう、1914年〈大正3年〉1月13日 - 1938年〈昭和13年〉5月17日)は、大日本帝国陸軍の軍人。陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級〔菊池(1995)、p.175〕。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。 日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍。戦死後、軍部から公式に「軍神」として最初に指定された軍人として知られる。 == 来歴・人物 == 1914年(大正3年)、父三作・母千代の間に、三男四女の二男として生まれた。父三作は退役軍人であり、明治期に陸軍教導団を経て台湾の抗日勢力の鎮圧、日露戦争に参加、曹長から中尉(予備役後大尉に昇進)まで上り詰めた人物だった。また祖父の深九郎は西南戦争に薩軍側として参加、その後戦友のつてで佐々友房の設立した熊本国権党員となり、三作とともに地元の公共事業に尽力していた〔菊池(1995)、p.144〕。こうした環境は幼少期の小次郎に大きな影響を与えており、早くから軍人への道を志していた。 1920年(大正9年)、甲佐尋常小学校に入学。当初胃の病気で体が弱く、1・2年ともに一か月程欠席していたが、成績は優秀であり〔菊池(1995)、p.156〕、1・2年生では二番、3年から6年生は首席だったという。 1926年(大正15年)4月、旧制御船中学校(現:熊本県立御船高等学校)に入学。成績は1年で18番、2年で5番、3年が3番、4年の時は陸軍士官学校入学を優先したため7番だった。また、在学中陸軍幼年学校への入学も希望していたが、視力が弱いため不合格となった〔菊池(1995)、p.158〕。小学校の頃の西住は活発な印象だったが、中学の頃は生真面目で寡黙な言わば文学少年といった印象であり、当たり前のことを当たり前に淡々と取り組むタイプ、クラスメイトの中ではどちらかと言えば記憶に残らないような存在だった。 4月上旬、陸士に合格。この時、御船中学からは他に赤星繁、西田義晴、甲斐勝衛、西住恵(のち胸膜炎のため退学)、高田増実(工兵科に配属、中佐)の4人が同じく陸士に、岡田茂正が海軍機関学校に同時に合格している。在学中は目黒に住む叔父(父の義妹の夫)の陸軍獣医少佐、斉藤清左衛門宅に下宿した。陸士では第1中隊第3区隊(区隊長・岩国泰彦中尉)の配属となる。在学中、中学以来一蓮托生であった無二の親友が病気により失意のうちに退学、さらにルームメイトと実の父を相次いで失うという衝撃的な出来事が相次ぎ、その後の彼の人生に大きな影響を与えた。 1934年(昭和9年)6月の卒業(第46期、兵科:歩兵)後、見習士官として宇都宮歩兵第59連隊附。同年12月には、静岡歩兵第34連隊の陸軍歩兵少尉として満州事変に従軍。これにおいて飛行機とともに戦車の重要性を感じた西住は、内地帰還後、自ら戦車兵への転科を要望した。1936年(昭和11年)1月から習志野戦車第2連隊練習部で戦車兵としての教育を受けた後、同年8月から久留米戦車第1連隊附に転任して陸軍歩兵中尉任官。 翌年の1937年(昭和12年)9月3日、第二次上海事変において戦車第5大隊・第2中隊(中隊長・高橋清伍大尉)配下の戦車小隊長として上海に上陸、急遽天谷支隊に配属された。 以降、歩兵支援という地味な役回りではあったが、大場鎮の戦い、南翔攻城戦と激戦を戦い抜き、うち5回も重傷を負いながらも、一回も前線を退くことなく、実に計34回の戦闘に参加して武勲を挙げた。また、高橋大尉が負傷した際には、中隊長代理として第2中隊の指揮を務めた。 徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近に於いて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見した。西住は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車し単身斥候を行った。そして指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃された〔このように、指揮官旗が目印となって戦死した将校は少なくなかった。第五大隊でも、西住の戦死前後に、今村、村上という名の二人の小隊長が同じ状況で戦死している。〕。銃弾は西住の右太腿と懐中時計を貫通し左大腿部の動脈を切断した。 すぐに部下である城秀雄伍長と砲手であり当番兵の高松高雄上等兵が戦車から飛び出して西住を担ぎ込み、また別の戦車2両が前面に出てクリークと西住の間を遮り盾となった。西住は出血多量のために意識朦朧となりながらも、高松上等兵に高橋中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じた。部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住は、衛生隊軍医の服部(階級不明)から応急措置を受け止血したが、すでに手遅れであった。自らの最期を悟った西住は、高松ら部下と高橋中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げ、午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取った〔菊池(1995)、p.231〕。 享年24。死後、陸軍歩兵大尉に特進した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西住小次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|