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西保周太郎 : ミニ英和和英辞書
西保周太郎[にしぶのしゅうたろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

西 : [にし]
 【名詞】 1. west 
: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [しゅう]
 【名詞】 1. circuit 2. lap 3. circumference 4. vicinity 5. Chou (dynasty)

西保周太郎 : ウィキペディア日本語版
西保周太郎[にしぶのしゅうたろう]
西保周太郎(にしぶのしゅうたろう、寛政9年(1797年) - 文政4年(1821年))は、江戸時代博徒甲州博徒の先駆けとなった人物。別名に武田秋太郎。
== 略歴 ==
甲斐国西保中村山梨市牧丘町)に生まれる〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、pp.9 - 10〕。西保中村は甲斐北東部の山間部に位置する山村であるが、秩父往還青梅往還に近接する物流の拠点で、農村歌舞伎相撲など芸能興行も盛んな消費地であり、周太郎家も煙草などの輸送業や金融業・芸能興行に携わっている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、pp.9 - 10〕。なお、生家である竹川家は竹川家資料を伝存し、同家の由緒書に拠れば武田氏の直系子孫としており、文化14年(1817年)に周太郎が奉納金を恵林寺に寄付した際の礼状である「覚(奉納金受取ニ付)」では宛所を「武田秋太郎」としている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.10〕。
周太郎は江戸後期の甲斐国における本格的な博徒間抗争の幕開けを告げる人物として知られ、文政2年(1819年)頃から勢力範囲の近接する一之宮村の神主・古屋左京との抗争が激化する〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。
両者の抗争は、甲州街道・勝沼宿において古屋左京と千野村幸蔵ほかと、西保村領兵衛の子分・大野村駒蔵間で公論が発生したことに端を発する〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。駒蔵は西保周太郎派に属する博徒で、領兵衛・駒蔵は一之宮村の古屋左京の子息・小平太宅の襲撃を行う〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。古屋左京はこの報復として西保中村の領兵衛宅を襲撃するが失敗し、秩父往還において駒蔵と喧嘩を行い、青梅街道沿いの小原村の小原村政兵衛宅に潜伏していた領兵衛の居場所を突き止めたという〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。古屋左京は政兵衛宅を襲撃すると領兵衛を殺害し、駒蔵にも傷害を加える〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。こうした両勢力の抗争の激化により、文政4年(1821年)に西保周太郎は石森村において石森村常兵衛による手打ち式に参加するが、その場で殺害された〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、pp.9 - 10〕。享年25。なお、古屋左京もその後捕縛されて刑死し勢力を壊滅させている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.9〕。甲府盆地東部では新たに甲府の三井卯吉の子分となった国分三蔵祐天仙之助らの博徒が台頭する。
周太郎と古屋左京との抗争を題材とした小説『敵討甲斐名所記』(文政4年〔『調査・研究報告6』Ⅲ - 1。『敵討甲斐名所記』は作者不詳であるが周太郎と古屋左京の抗争事件の直後に作成され、所々に誤写が見られることから筆写されて広範囲に流通していたと考えられている(『調査・研究報告6』、p.19)。また、当史料は全般的に古屋左京側の視点から物語が組み立てられ周太郎は悪役として描かれており、作者は古屋左京側に近い人間と推定される(『調査・研究報告6』p.21)。周太郎は25歳で死去しているが当史料には適齢期である周太郎の娘「ふじ」が登場するなど、内容にはフィクションの要素も加わっていると考えられている(『調査・研究報告6』、p.20)。〕)に拠れば、その外見を「面体長面ニて、まゆ毛ふとく、色白くして、丈中勢ニして、眼尻りゝしくにがミ走り男」と伝えている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.10〕。また、『近世侠客有名鏡』(明治31年、1898年)においては前頭七枚目において紹介され、黒駒勝蔵竹居安五郎と並ぶ大侠客として名が挙げられている〔『黒駒勝蔵対清水次郎長』、p.10〕。
山梨市牧丘町西保中の西源寺には周太郎と婦人の墓石がある。墓石に刻まれた年記は周太郎が死去した文政4年で、生家の竹川家は武田氏末裔を称しているため武田家の家紋である武田菱が刻まれている。周太郎の没後に竹川家は博徒としての活動から離れ生糸を生産する資本家となり、周太郎以後の竹川家の墓石の家紋は亀甲に三つ鱗に変化し、家意識の変化が指摘される〔『調査・研究報告6』Ⅳ - 1〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「西保周太郎」の詳細全文を読む




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