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西原 俊次(にしはら としつぐ、1960年4月26日 - ) は、日本のミュージシャン、作曲家。元「オメガトライブ」のキーボーディスト。 東京都品川区出身。東京都立日比谷高等学校卒業。血液型はAB型。 == 人物 == 杉山清貴、高島信二等、後のオメガトライブメンバーが多く在籍していた前身のバンド「きゅうてぃぱんちょす」のキーボード担当は、現在芸術音楽の作曲家として活動する千住明であった。しかし、プロデビューを約束する1980年の第19回ヤマハポピュラーソングコンテストで優勝を果たせなかったことから、千住は在学中の慶應義塾大学から東京芸術大学に転学受験して音楽家を目指すことになり、グループを離れる。西原はその後任として同バンドに参加、以後一連のオメガトライブプロジェクトに至るまでキーボードを担当した。加入前はヤマハの日吉センターに通っており、主にジャズをカバーしていたという。「きゅうてぃぱんちょす」もこのホールでライブなどを行っていたため面識があった。 「きゅうてぃぱんちょす」は元々ロック色の強いバンドであったが、トライアングル・プロダクションの社長であり、プロジェクトのプロデューサーでもあった藤田浩一の戦略から、「海の香りのする都会的なサウンド」をコンセプトにしたAOR、フュージョンが要素の「新しい日本のポップス」を打ち出した。メインとなる曲の作曲は作曲家の林哲司が担当、作詞には林と共に制作した楽曲などがヒットしたこともある康珍化や、当時はまだ若手だった秋元康が主となり、編曲にはディレクターも担当していた志熊研三や松下誠など林のカラーに近いアレンジが施されたものを提示、メンバーはこれを承諾し1983年に「杉山清貴&オメガトライブ」としてシングル『SUMMER SUSPICION』でデビューする。 以降、『君のハートはマリンブルー』や『ふたりの夏物語』など、夏・海・リゾートをテーマにした楽曲がヒットし、サマーソングのバンドイメージも定着するようになった。しかし、1985年5月に吉田健二(ギター)が脱退したことで、プロデューサーとメンバーの方向性のすれ違いが表面化し、同年12月にバンドは解散する。 その翌年の1986年、ボーカルがカルロス・トシキに変更、ギターにも事務所の先輩だった黒川照家を迎え、プロジェクトの第2弾となる「1986オメガトライブ」がスタートする。制作陣ではメインの作詞が有川正沙子や売野雅勇、作曲は和泉常寛、編曲も新川博に変更され、杉山時代に比べメンバーのオリジナル作品も増えるなどしたため、音楽性も大幅に変わった。 「1986オメガトライブ」のデビューシングル『君は1000%』は日本テレビ系ドラマ『新・熱中時代宣言』の主題歌となりヒットした。その後も「カルロス・トシキ&オメガトライブ」に改名後のシングル『アクアマリンのままでいて』などヒット曲を多数リリースした後、1991年に「カルロス・トシキ&オメガトライブ」は解散、グループのプロジェクトは終了した。また、杉山時代から様々なメンバーの脱退や加入、制作陣の変更があった中、高島(ギター)と共に最後までオメガトライブのプロジェクトに参加した。 翌1992年には高島と共に「DOME(ディーオメ)」を結成し、フジテレビのワイドショー『TIME3 タイム・スリー』の番組テーマ曲となる『女神たちに逢える日』をリリース。1994年に結成された「WEATHER SIDE(ウェザーサイド)」にも高島と共に参加し、オリジナル楽曲を中心に活動した。なお、3代目オメガトライブとなる「BRANDNEW OMEGATRIBE(ブランニュー・オメガトライブ)」は藤田プロデュースによる新井正人のソロプロジェクトであり、高島同様参加していない。また、1995年から2004年にかけてNHK教育テレビジョンで放送された『なんでもQ』では番組中の楽曲を担当し、その中には杉山が歌唱した曲もあった。1997年から2008年の夏まで田原俊彦のバンドマスターとして活動した。尚、2004年に行われた「杉山清貴&オメガトライブ」の再結成にも参加している。 私生活では3人の子どもを持つ父親である。また、杉山時代には河合奈保子のファンであることを公言していた〔1985年12月26日放送回の『ザ・ベストテン』より〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西原俊次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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