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西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)とは、江戸時代における街道のひとつであり、近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)〔大坂〜西宮を結ぶ街道(浜街道)も中国街道・中国路とも呼ばれる。〕、山陽路(さんようじ)などとも呼ばれる〔松村明監修『大辞泉』小学館(1998年)〕。 京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一致する。 また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮〜下関まで区間、あるいは同じく京〜西宮までの区間を指すこともある。 == 概要 == 江戸時代には、いわゆる「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であっても江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備されたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが整備された。 江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関の赤間関(あかまがせき)に 至る道として再整備されたものである。 幕府は、江戸を中心とした五街道に重点を置く街道整備政策を行ったが、その延長線上に山陽道は脇街道に位置付けられることとなった。この山陽道を当時は西国街道(または西国往還)と呼ぶこともあり、道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。下関から関門海峡を越えて小倉へと至ることで、江戸と長崎を結ぶ幹線道路の一角でもあった。これらのことは、寛永10年(1633年)の幕府巡視使の巡視を契機としたが、寛永12年(1635年)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。 なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都~西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街道、大坂~尼崎~西宮間は中国街道〔西宮〜下関間、もしくは山陽道全体を中国街道と呼称することもある。〕などと呼称する場合が多いようである。 長州藩は、整備に力を注いだ。慶安2年(1649年)の長州藩が幕府へ提出した絵図(正保国絵図)には、山陽道に30カ所の馬継ぎを設置したことが記されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「西国街道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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